アビゲイル・シュライアーの『Irreversible Damage』を読みました

アビゲイル・シュライアーの『Irreversible Damage』を読んだ。ご存じの方も多いと思うが、先日KADOKAWAが翻訳本の出版をアナウンスしたが、抗議にあって短期間のうちに出版を取りやめたという本である。

 

私自身はシュライアーが原書の発売時におそらくプロモーションとして出演した 動画を訳していたので、概要はわかった気になっていたのだが、今回日本でも大騒ぎになったということで自分でもしっかり読んでみることにした。

 

読んでみた感想だが、この本には少なくとも思春期の子供を持つ親の年代の人にすればまったくもって常識的なことしか書かれていない。ではなぜこの本が「反トランス」とか「差別的」とかセンセーショナルに叩かれるのか。それは活動家の教義に反することが書いてあるからだ。

 

ではその活動家の教義とは何か。ジェンダー肯定ケアである。思春期の少女が自分は男性だと考えれば医師はそれをそのまま肯定し、医療サービスのオプションを提示する。患者の自己診断が常に最優先。他の病気のように患者の訴えをきいて医師が他の原因があるのではないかと疑うようなことはしない。

 

留保のない全面的なサポートが親にも求められる。疑問をさしはさもうものなら娘は自傷・自殺に走るだろうと医療関係者は言う。親のあずかり知らぬところで学校は子供たちに医療へのアクセスを与え、子供の選んだ名前や代名詞で呼ぶ。親にとっては非常に心配な教育機関の方針である。

 

この本は、トランスジェンダーの子供を持つ親、医療関係者や専門家(肯定ケア推進派・懐疑派両方)、思春期にジェンダーを変えたが現在は元のジェンダーに戻った人々へのインタビューから構成される。文章のトーンは冷静でトランスジェンダー当事者への配慮を最大限払っていると感じられた。

 

KADOKAWAの翻訳本のタイトルは、『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』という。ここに「感染」という言葉が使われているという批判があったが、原書の本文でも「Contagion」という言葉は使われている。ただし、これは病原菌を介して感染するという意味ではなく社会的感染のこと。原書では「Peer Contagion」という形で出てくる。Peerは「仲間」の意。

 

かつてはジェンダー変更を望むのはほぼ男子だったのだが、ここ十数年でジェンダー変更を望む思春期の少女が大きく増えた。彼女たちの多くは白人で裕福でリベラルな家庭に育っている。また、仲間にトランスジェンダーが既にいる場合、まわりの子がトランスを望む率も高い。

 

本書にも登場するブラウン大のリットマン実務助教授(当時)はこの現象を急速発症性性別違和(ROGD)と名付けた。本書を批判する人はROGDが専門機関に認められておらず信頼できる科学的証拠に基づいていないとするのだが、上述のような観察可能な現象が存在することに疑いはない。 

 

また、シュライアーが本書でトランス当事者の少女の話を聞いていないという批判もあるのだが、彼女たちの話を聞くわけにはいかないのである。なぜなら、活動家たちの教義によれば、彼女たちの話をそのまま受け入れず、疑義をはさんだり深堀りすること自体が差別的で有害だとみなされてしまうからだ。

 

著者は少女たちを守るための第一の方策はスマートフォンを与えないことであるという。少女はSNSでトランスジェンダーやアライのコミュニティに参加する。参加者には大人も多い。そこはすべてを受け入れてくれる場所のように少女には見える。大人たちは褒めたり叱ったりしながら親の知らないところで少女を取り込んでいく。

 

本書がアニメを批判していると言っている人が一部にいるが、それは間違い。本文中でアニメに言及されているのは2か所だけ。どちらも親の話として子供がアニメを好きになったと軽く触れられているだけ。親もそれ以上のことは言っていないし、著者のシュライアーも掘り下げることはまったくしていない。

 

翻訳本の副題に「ブーム」という言葉があるのも批判されたが、これも原書副題の"Craze"の訳と考えればそれほど大きく外れてはいない。だが、それにしても今回のKADOKAWAの対応はお粗末。デリケートなテーマだとわかっていながら、「社内でちゃんと話を通していなかったのか?」「理論武装していなかったのか?」と思う。

 

私はイギリス版で読んだのだが、その表紙にはアイルランド人ジャーナリストでトランスジェンダー権利運動の批判で知られるヘレン・ジョイスの「すべての親が読むべき本」という推薦文がついている。私もこれに全面的に賛成する。

 

この本はイギリスではタイムズ紙やエコノミスト紙が年間の優良図書のリストに加え、アイルランド全国紙のアイリッシュ・インデペンデントも好意的なレビューを掲載した。この本についてはアメリカとヨーロッパでは大きな温度差があるようだ。あるいは北米とその他の地域といったほうがいいか。

 

 

バフィー・セントメリー: 先住民の出自にまつわる疑惑

カナダの先住民・クリー族の血を引くと主張して過去60年にわたって活動してきたフォークシンガー/人権活動家の出自に疑惑の目が向けられている。10月に放映されたカナダの放送局CBCの調査報道番組『The Fifth Estate』によれば、彼女は白人の両親のもとにマサチューセッツ州で生まれたアメリカ人だというのだ。 

 

彼女の名前はバフィー・セントメリー。1960年代初頭からグリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスなどで歌い始め、映画『いちご白書』や修正主義西部劇(開拓者を善玉とする単純な勧善懲悪ではない西部劇)の嚆矢となった映画『ソルジャー・ブルー』の主題歌を歌い、日本でも大ヒットした映画『愛と青春の旅立ち』の主題歌の作曲者にも名を連ねている。先住民を対象とした賞も数多く受賞しているほか、活動家としては先住民の権利のために積極的に発言していた。

 

バフィー・セントメリー: 2015年 (左) と1968年

彼女のデビュー当時からの主張は、先住民の子供として生まれたが、赤ん坊のころにマサチューセッツ州の白人家庭に養子に出されたというもの。しかし、彼女のさまざまなインタビューを突き合わせてみると、辻褄の合わないことがたくさんでてくる。たとえば、出身部族はアルゴンキン、ミクマク、クリーと移り変わる。アイデンティティ詐称を調べるジャーナリストによれば、こうした証言の変遷は要注意サインの1つであるという。

 

彼女公認の回想録によれば、彼女の出生証明書は失われてしまったという。しかし彼女が育ったマサチューセッツ州の役所には彼女の出生証明書が残っていることを番組は突き止める。そこには、彼女も彼女の両親も白人と記載されていた (当時は人種を出生証明書に記載していた)。

 

バフィーの両親

当然のことながら彼女の家族は彼女の嘘にとまどった。だが、彼女の評判を落としたくもなかったし、訴訟のリスクもあったので、当初はあまり公に発言することはなかった。しかし、米空軍を退役後に民間の航空会社でパイロットを務めていた兄のアランが真実を知ってもらおうと70年代の初めごろからさまざまな新聞に投書を始める。

 

アランの投書を掲載した新聞はないようだったが、ある日ビーチボーイズやローリングストーンズもクライアントとして抱えるLAの大手弁護士事務所から手紙が届く。これ以上バフィーの活動のじゃまをすればあらゆる法律的手段に訴えるという警告である。

 

その封筒にはバフィーの手書きのメモも同封されていた。そこには「アラン、あなたがまた私を傷つけようとするなら、あなたが子供の頃私を性的に虐待したことを公表し、勤務先や妻にも伝え、警察に訴える」という脅し文句が含まれていた。法廷で争うリソースのない彼は手を引くことを余儀なくされる。

 

その後、彼女は子供の頃に性的に虐待されたというストーリーをインタビューで話し始め、アランの死後にはその犯人が彼であったことを公言している。アランが死んでしまった今となっては何が真実かはわからない。しかし、この手紙を放送することを番組に許可したアランの娘(バフィーの姪)はバフィーが嘘をついていると信じており、「無名のままでいたかったが、父や祖父のためにもこうした酷い誤りを正さなければならないと思った」と番組に出演した理由を語っている。

 

バフィーの姪のハイディさん

番組放映後もバフィーは先住民の出自であるという主張を変えていない。ミュージシャンの間からは彼女が先住民として獲得した賞を取り消すべきだという声があがっている。彼女は成人後に先住民の家族と養子縁組を結んだのだが、その部族の族長はDNAテストを受けることを彼女に求めている。

 

北米では、名誉・金銭・地位のためにマイノリティを騙る(またはその疑惑のある)著名人が後をたたない。1/64先住民であると主張した米国上院議員のエリザベス・ウォレン、白人の両親を持ちながら自分は黒人だと主張した全米黒人地位向上協会元幹部のレイチェル・ドラザール、先住民文化をテーマに小説を書くカナダ人作家のジョゼフ・ボイデンなど。

 

左からウォレン、ドラザール、ボイデン

 

「日本の性交同意年齢は13歳」という半真実、というかデマをやっつける方法

「日本の性行同意年齢は13歳」という半真実 (half-truth)が欧米で広まったのは、伊藤詩織氏がヨーロッパの何か国かでテレビ番組に出演してレイプ被害を訴えた2018年からです。伊藤氏はそのインタビューの中で性をめぐる日本の状況について、事実と異なる、または誤解を招く表現をいくつか用いています。たとえば「日本社会で育つと誰でも性暴力や性的暴行を経験している」「女子高生として交通機関を使うようになると毎日そういう目に遭うようになる」などです。「日本の性交同意年齢は13歳」という発言もその中の1つです。

 

日本国の刑法では、1907年以来、性交同意年齢は13歳と定められていました (2023年7月にいくつかの条件付きで16歳に引き上げられました)。その意味では、伊藤氏の発言は嘘ではありません。しかし、伊藤氏が開示しなかった情報があります。それは、日本の性交同意に関する法律は2層 (two layered)になっているということです。そのうちの1つが既に触れた刑法なわけですが、もう1つは各都道府県の条例であり、そこでは16から18歳が性交同意年齢とされています。日本ではこの2つを合わせて性交同意年齢が規定されているのであり、刑法の条文だけを用いて日本の性交同意年齢を説明するのは不誠実です。

 

では、なぜ性交同意年齢を2層で規定するなどという「ひと手間」をかけているのか。これは、刑法の古い規定に都道府県条例を新しく追加することで時代に対応してきたという歴史的な経緯もあるのかもしれません。しかし、性交同意年齢を法律で定めるのは一筋縄ではいかない (not straight-forward) ものだからです。たとえば、恋愛関係にある18歳の17歳が性交したとして、18歳を杓子定規に逮捕すべきだと考える人は少ないでしょう。新しい刑法の条文でも「年齢差が5歳以内の場合は」云々と但し書きがついているのはそのためでしょう。

 

「日本の性交同意年齢は13歳」という話は欧米の多くの人には衝撃的だったらしく、いろんなところでカジュアルに話題になっているのを見ました。たとえば、日本在住外国人が英語で発信する系のこちらのエンターテイメント系Youtubeチャンネルです。最近、X (旧Twitter)で同じようなポストを見たのがこのブログ記事を書こうと思ったきっかけです。

 

有利な立場を手に入れるために、相手に道徳的劣位者のレッテルを貼るのはよくある戦術です。そしてオーディエンスの劣情を刺激する性の話は非常に有効です。『アラビアン・ナイト』を性的に誇張・加筆して翻訳したリチャード・バートン卿、慰安婦の強制連行を捏造した吉田清治とプロパガンダに踊った不勉強な欧米の学者やジャーナリスト、一時期話題になった英字毎日新聞のWai Wai ニュースもこの系譜につながるものかもしれません。

 

余談ですが、性的同意の問題は一筋縄ではいかないということを示す1つの例をあげておきたいと思います。私の住むアイルランドでは、婚外で知的障害者と性交した人を刑事罰に問う法律が1993年に施行されました。知的障害者は性交に同意する能力がないという理屈です。もちろん障害者を守るという趣旨で作られた法律だったのですが、これだと障害者は婚外で事実上性交できなくなるため、支援団体が動いて2017年に廃止になりました。この件をテーマにした映画も作られていて、障害者の役は全員障害者の方が演じています。『Sanctuary』というタイトル。ご興味のある方はどうぞ。

 

 

日本はジェンダーギャップ指数125位だとドヤる人に反論するための材料

日経新聞の対談記事(2023/9/3公開)で駐日英国大使のジュリア・ロングボトム氏がジェンダー平等の点で日本は英国に30~40年遅れていると感じると発言しました。 

 

私も日本がジェンダー平等の点で完璧な国だとは思っていませんが、自分の国の価値判断を絶対視して「日本は英国に30~40年遅れている」と無邪気に発言するのは外交官としてガードが下がりすぎているのではないかと心配になります。しかし、こうした要人の雑な発言を放っておくと、「日本は英国に30~40年遅れている」みたいな議論が通説となってしまうおそれがあるので、面倒くさがらずに反論をあてていったほうがいいと思うのです。

 

ジェンダー不平等指数

ジュリア・ロングボトム大使が持ち出すデータのひとつは、例によって世界経済フォーラムのジェンダー・ギャップ指数です。今年の同指数では日本は125位。政治・経済分野での女性の進出の少なさがこの順位の低さにつながっているようです。

 

しかし、1つの指数をもって日本がたとえば英国より遅れていると結論付けるのは早計です。たとえば、国際連合総会の補助機関である国連開発計画(UNDP)は人間開発報告書なるものを毎年発表しています。この報告書は、人間開発にまつわるさまざまな調査結果をまとめたものです。そこで算出された指標の1つに「ジェンダー不平等指数」というものがあり、報告書では不平等が少ない順に並べたランキングを発表しています。最新の2021年のデータでは、日本は191か国中22位、イギリスが27位なのです。

 

実際に反論するときの資料としては、Wikipedia 英語版の「Gender Inequality Index」のページが便利です。短くまとまっていますし、2019年のデータですがランキングも表になっています (2019年は日本は17位、イギリスは26位です)。もちろん最新の人間開発報告書を出してもいいんですが、こちらは数百ページにおよぶ大部ですし、ランキングの表も読みにくいです (ランキングの表は303ページに掲載されています)。

 

ちなみに、最新版2021年の第25位までは以下のとおりです。

1 デンマーク、2 ノルウェー、3 スイス、4 スウェーデン、5 オランダ、6 フィンランド、7 シンガポール、8 アイスランド、9 ルクセンブルク、10 ベルギー、11 UAE、12 オーストリア、13 イタリア、14 スペイン、15 ポルトガルと韓国、17 カナダ、18 スロベニア、19 オーストラリアとドイツ、21 アイルランド、22 日本とフランスとイスラエル 25 ニュージーランド  

 

「日本はジェンダーギャップ指数は125位」とか「日本は○○年遅れている」みたいな雑なドヤりには、上のジェンダー不平等指数を出すだけで十分に反論の用は足りると思うのですが、もう少し日本と西洋の状況が異なることを示すデータをみていきましょう。

 

家計の主導権

まず、日本は女性が家計の主導権を握る割合が非常に高いということです。2012年と少し古いデータになりますが、ドイツの社会科学調査機関であるGESISが発表したISSP (International Social Survey Programme) という報告書があります。調査対象の35か国のうち、妻が家計の財布の紐を握る割合が最も高いのは日本で55.7%。次にフィリピン(51.3%)、韓国(49.4%)と続きます。4位はぐっと下がって28.1%のロシア。中国は20.5%で7位。アメリカは16.8%で13位、フランスは3.2%で31位です。イギリスはこの調査の対象国ではありませんでした。

 

日本では妻が家庭の大蔵大臣の地位を占める割合がこれほど高いということを、国外の多くの人が知らないのは仕方のないことですが、こうしたデータを提示することで社会の成り立ち方が異なるのだということを実感してもらうことができるでしょう。このデータを出す目的は、西洋的な社会の成り立ちが唯一の文明的な社会の成り立ちだという無邪気な考え方に冷や水を浴びせることです。

 

詳しい解説やデータを視覚化した見やすいグラフについては、プレジデント誌のこちらの記事をご覧ください。

 

幸福度

次のデータは、女性の幸福度と男性の幸福度を国ごとに比較したものです。データの出典は2010-2014年期の World Values Survey と European Values Survey となります。

 

 

最初のグラフからは日本の女性の幸福度 (無回答を含む全体に占める「非常に幸せ」と「かなり幸せ」の比率の計) が約 90%、男性は約 80% であることがわかります。そして、第二のグラフからは、女性の幸福度から男性の幸福度を差し引いた値が調査対象の57か国中、最も高いのが日本であることがわかります。英語圏の人が持つ「Happy」の語感と日本人が持つ「幸せ」の語感は違うなどの国際比較の問題点はありますが、同じ国の中で男女間の差が一番大きいのは日本であるという調査結果に変わりはありません。

 

安全性

また、日本は女性にとって安全な国であるということがいえます。龍谷大学の津島昌弘教授が、欧州の調査結果と比較するために調査方法も踏襲して同様の調査を行ったのですが、「暗数」を含めても日本は欧州より安全、という結論になっています。

 

実際の論文はこちら。わかりやすいまとめ記事はこちら

 

まとめ

数か月前には駐日のアメリカ大使がLGBTに関して日本はアメリカの30年前の状況であると述べていました。「日本は○○年遅れている」みたいな発言は、西側の社会的な進化の道筋が人類の唯一の進化の道筋であるという考えがなければ言えないわけですが、世界は西洋中心に回っていると無邪気に思ってるのか、世界を西洋中心に回すぞという明確な意思に基づいて戦略的に言ってるのか、どちらなんでしょうか。

 

冒頭に書いたように日本がジェンダー平等において完璧な国だとは私も思っていませんし、日本は英国より進んでいるなどという不毛な議論をするつもりもありません。しかし、日常生活や職場で「ジェンダーギャップ指数125位」や「日本は○○年遅れている」などのガードの下がった議論を吹っかけてくる人に対しては、反射神経を発揮して、その場で反論の1つもしておかなければ「ガードを下げても打ち返してこない人(打ち返す力も気力もない人)」というカテゴリに分類されて、まともに相手にしてくれなくなるかもしれません。がっぷり四つに組む前に、面倒くさくても組み手争いはしておく必要があるということです。

 

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デイビッド・マクニールが産経の古森さんをだまし討ちにした件

ずいぶん前の話になりますが、2006年にデイビッド・マクニールが産経の古森さんをだまし討ちでインタビューしたことがありました。

 

マクニールは英国インデペンデント紙の特派員として古森さんにコンタクトし、同紙の記事にするという約束でインタビューを行いました。ところが同紙には記事は掲載されず、マクニールが編集者を務める『Japan Focus』というネット論壇に古森さんの取材中の発言がほぼすべて掲載されました。

 

インタビューの目的も「靖国参拝についてのいろいろな人の意見をまとめる記事を書くため」とマクニールは言っていたのですが、彼のほんとうの目的は別のところにあったようです。

 

ことの顛末を古森さんがコラムにし、その書き起こしはCatNAさんのブログなどで読むことができたのですが、コラムが掲載された正確な日付がわからなかったので、今回、神奈川県立図書館で紙面を確認してきました。古森さんのコラムが掲載されたのは、2006年9月23日付産経新聞の第7面でした。

 

以下、記事の書き起こし。

 

『在日外国「特派員」の背信』
産経新聞コラム【緯度経度】 ワシントン・古森義久

 

 東京発の欧米マスコミ特派員の報道には偏向した内容が少なくないとは以前から思っていた。欧米のどの国でも政治指導者が国への愛とか誇り、さらには安全保障の重要性などを説くのはごく普通だろう。だが安倍晋三氏のような日本の指導者がそれを説くと、とたんに「タカ派のナショナリスト」とか「危険な軍国主義者」とまでののしる。明らかな二重基準、そして政治的偏向である。
 
  東京在住の外国記者のそんな政治偏向の毒気をいやというほどかがされる体験をした。偏向だけでなく取材のルールを守らない欺瞞(ぎまん)だった。みごとにだまされてしまった。記者だか政治活動家だかもわからないその手口を報告しよう。
 

 所用で一時帰国していた8月下旬、英国のインディペンデント紙の東京特派員だというディビッド・マクニールという人物から取材の申し込みがあった。産経新聞を通じての連絡で「靖国参拝についてのいろいろな人の意見をまとめる記事を書くため」私にインタビューしたいということだった。ワシントンに戻る直前の多忙の時期だったが、有力紙での報道なら、ということで応じた。ただ電話での会話でなにかが変ではあった。マクニール氏は靖国以外のことに関心を抱いている感じなのだ。
 

 8月23日、約束どおりに有楽町の外国特派員協会に出向くと、現れたマクニール氏は中年の細身、そったような頭の人物だった。
 

 日本語がかなり上手だったが、英語での会話となった。「靖国問題についてインディペンデント紙に記事を書くためのインタビュー」という基本を相互に再確認し、同氏は録音を始めた。同紙に記事を書くためのノートテーキングとしての録音というのが当然の前提だった。
 

 ところがマクニール氏の質問が奇妙なのである。肝心の靖国よりも日本国際問題研究所の英文発信についてばかり問いたがるのだ。
 

 この英文発信について私は8月中旬のこのコラムで取り上げ、政府からの資金で運営される研究所がなぜ政府の政策を非難し、あざける内容の論文を継続して外国向けに送るのか、という疑問を呈した。同研究所は意外なほどの速度で反応し、非を認めて、その発信を中断してしまった。自主的な是正措置だった。
 

 ところがこの私のコラムを「言論弾圧」と非難する声が米欧の左派の学者やジャーナリストの間で起きていた。私のただ問いかけだけのコラムが「右翼による威嚇」だというのだ。マクニール氏も明らかにそういう態度で私の認識を批判し、「あなたが研究所に手紙を書き、英文発信の再開を求めたら」とまで勧めるのだ。
 

 そのうえで同氏は私をリトマス試験にかけて裁くように南京事件、慰安婦、東京裁判などについて見解の表明を迫ってきた。自国を愛するというテーマでは同氏が否定的な発言をしたので奇妙に感じた。なんとも異様な気分で50分ほどのインタビューを終えた。
 

 その2週間後、ワシントンで米国の友人から私の歴史認識などに関するコメントが、なまの形で延々とインターネット論壇に出ていると知らされた。米側の日本研究者主体のNBRというネット・フォーラムである。自分でみると、びっくり、ディビッド・マクニール氏による「産経新聞の古森義久と日本国際問題研究所論議」と題されたリポートふうの記述の転載だった。掲載元は「ジャパン・フォーカス」というネット論壇だった。


 調べてみると、マクニール氏は私のインタビューをインディペンデント紙にはまったく使わず、「ジャパン・フォーカス」用にみな使っていることが判明した。しかも単にメモをとる記録用のはずだった録音を私にひと言の断りもなく、そのまますべて活字にしていた。主題も靖国ではなく国際問題研究所の出来事にしぼり、とにかく私を非難しようという姿勢があらわだった。私の発言も気軽に語ったために配慮が足りないような部分をことさら拡大していた。そして全体を「修正主義の見解」と決めつけ、欧米左派の多い複数のネット論壇にアップして、私を攻撃させる意図なのだ。
 

 完全にだまされたと感じた。在日歴の長い米国人の学者に聞くと、マクニール氏はかなり知られた左翼の研究者・活動家で報道はその活動の一部に過ぎず、インディペンデントへの執筆はときおりの寄稿なのだという。政治見解も言論活動も自由だが、約束を破り、他者をはめる自由というのはないだろう。同じ記者の、しかも外国特派員を長年、務めた私が在日外国人「記者」の取材でこんなひどい目にあうとは、つい「みなさん、ご用心を」と訴えたくなる。

 

(書き起こしここまで)

 

 

参考: 文中に登場するマクニールの記事
The Struggle for the Japanese Soul: Komori Yoshihisa, Sankei Shimbun, and the JIIA controversy
September, 2006
By David McNeill

 

『ウォークネス―事務方主義の最高の段階としての』

マルコム・シユーネの『ウォークネス―事務方主義の最高の段階としての』を訳してみた。保守系シンクタンクのマンハッタン・インスティチュートが発行する雑誌『City Journal』の2022年春号に掲載されたコラム。

 

20世紀前半、アメリカの思想家であるジェームズ・バーナムは、専門化した経営者が資本家に代わって会社を支配するようになるだろうと予測した。すなわち、資本主義の後を継ぐのは社会主義者ではなく、ある種の職能集団であるということだ。ある意味、その予測は実現しつつある。ただし、シユーネによれば、新しく支配権を握ろうとしているのは経営者ではなくウォーキズムである。

 

マルコム・シユーネは1987年生まれのスウェーデンの評論家。本人はマルクス主義者であるとしているが、ポピュリズムに好意的であることから保守派であるとみなされることが多い。

 

タイトルの『Wokeness, the Highest Stage of Managerialism』(ウォークネス―事務方主義の最高の段階としての) は、レーニンの『帝国主義論』の英題『Imperialism, the Highest Stage of Capitalism』(帝国主義―資本主義の最高の段階としての) からインスピレーションを得たもの。

 

managerialism の訳は「事務方主義」とした。「経営者主義」では意味が違うし、「管理主義」では最も高いレベル (経営者など) からの管理のような印象を与えてしまう。民間の管理手法を自治体に持ち込むという意味で「マネジェリアリズム」という訳もあるようだが混同は避けたいし、カタカナ表記はできるなら使いたくない。「事務方主義」は聞いたことのない言葉だが、官僚による行き過ぎた支配が「官僚主義」と呼ばれるなら、事務方(ここでは、NPO/慈善団体、職場の多様性関連部署、SNSのキュレーション部署など、中位レベルの管理組織を指す)による行き過ぎた支配を「事務方主義」と呼んでもいいのではないかと考えた。また、バーナムの文脈では manager は「経営者」と訳す方がしっくりくると思うのだが、文章の中で統一するためにこれも「事務方」と訳した。

 

訳文中、[ ] は訳注、( ) は原文にある注を示す。

 

www.city-journal.org

 

(翻訳ここから)

ウォークネス―事務方主義の最高の段階としての

 

文: マルコム・シユーネ (Malcom Kyeyune)

公開: 2022年6月

 

最近の政治的な対立や文化戦争の対立がどれほど新しいものか忘れてしまいそうになるが、ほんの10年前、批判的人種理論はオンラインや学術的な場所でのみ目にするものだった。[米国]民主党の政治家は同性愛のカップルのシヴィル・ユニオンについて話していた[注1]。メディアや連邦政府は、過去の壊れた人種関係を修復するアメリカの試みがどれだけ成功しているかを言い募るのに忙しかった。今日、こうした古い秩序はほとんど残っていない。この変化はどれほどの速さで巻き起こったのだろうか。単純な尺度として、アメリカの四大新聞に「racism」(レイシズム)という単語が表れる頻度を見てみよう。1970年代から2010年まではほぼ横ばいだったその使用頻度は、2012年ごろを境に急激に高まった。その動きを牽引したのはワシントン・ポスト紙とNYタイムズ紙である。

 

注1: リベラルな政治家ですら正式な結婚ではなくシヴィル・パートナーシップについて議論していたということ。

 

この「グレート・アウェイクニング (偉大なる目覚め)」は、政治的な連合をひっかき回し、広く支持されていた真実を転覆させたが、ウォークネスそれ自体の概念はあいまいなままだ。ウォークネスは1つの信念体系(ライターのウェズリー・ヤンはこれを「後継イデオロギー」[注2]と名付けた)であるという当たり前の定義にもそれなりの価値がある(See “The Identity Cult,” Winter 2022.)。しかし、アメリカの二極化が進むにつれ、ウォークネスは社会的、経済的、法的、政治的な現象でもあることが明確になってきた。人々の頭の中にだけ存在する思想だと単純に考えるわけにはいかなくなったのである(See “The Genealogy of Woke Capital,” Autumn 2021.)。

 

注2: ウェズリー・ヤンによれば、後継イデオロギー (Successor ideology) とは、インターセクショナリティ、社会正義、アイデンティティ・ポリティクスなどを中心に据える米国左派の新しいイデオロギーを指す。

 

ウォークネスが制度的な力を持つものなら、その説明には比較分析が役に立つだろう。ほとんどの欧州人は、進歩的な西欧に比べてアメリカが古臭くて保守的だと思われていた頃のことを覚えている。それにもかかわらず、2022年の今、アメリカは他の西洋諸国に比べてより深刻な二極化と社会対立のさなかにある。世論調査によれば、公的機関への信頼は急速に失われている。二大政党のいずれかに自分を重ね合わせる米国人のうち、もう一方の党を民主主義への脅威だとみなす人々の割合は増えている。

 

では、私の母国である社会主義的なスウェーデンのような伝統的に進歩派の国に住む人々は、米国人と同じことを信じ、同じ本を読み、同じ考えを提唱しているのに、なぜ米国を苦しめている破滅的な社会の二極化を体験せずにすんでいるのか。アメリカの資本家が他の西側諸国よりもウォークに走ってしまったのはなぜなのか。アメリカでは、北欧諸国では考えられないような方法で大企業が直接的に政治闘争に介入している。こうした振る舞いが単純に新マルクス主義や社会主義といったイデオロギーの産物なのだとしたら、与党の社会民主党が今でも国会で「インターナショナル」を歌うスウェーデンのような国でこそ広がりを見せてもよさそうなものなのに。

 

ジェイムズ・バーナム[注3]が1841年に発表した『The Managerial Revolution』(注: 邦題は『経営者革命』)の中心的なテーマが、現在西洋で何が起きているかの理解を助けてくれる。この本において、元々はトロツキー主義者でありながら戦後アメリカの保守主義の中心人物となったバーナムは、西洋社会で資本主義が崩壊したり、社会主義に取って代わられたりすることはないだろうと論じた。そうではなく、アメリカの資本主義の後を継ぐのは社会主義ではない何かになる可能性が高いと彼は主張した。それは、古典的な意味で資本家が権勢を振るうようなものではなく、正式な所有権を持っていようがいまいが、事務方階級[注4]が現実の経済を支配するようなものになるという。

 

注3: James Burnham (1905-1980)はアメリカの哲学者、社会思想家。資本主義社会では資本家 (会社の所有者) が支配者であるが、将来的には専門化された経営者 (manager) が企業の新しい支配者になるだろうと主張した。

注4: バーナムが使う意味での manager はおそらく「経営者」と訳す方がしっくりくるのだが、この文章内での manager の訳を統一するために、ここでも「事務方」と訳すことにする。

 

 

資本の所有と資本の支配の違いは、戦間期 [注: 第一次世界大戦と第二次世界大戦の間]にも議論の的となったことがあった。その初期の分析では、ソ連の共産党政治局員が公的資源を支配する権限を占有していたと指摘された。米国では、バーナムによる新しい事務方秩序の予言は、ニュー・ディール政策を背景として生まれたものだ。そしてこれは、資本主義的な考えへの疑念が高まった時期に重なっている(それはある程度は理解できることだ)。パワー・バランスは、財産権から、着実に拡大を続ける人権へと移りつつあり、米国人は国家が計画および管理する社会領域が拡大していくことに抵抗をなくしていった。

 

バーナムは、1940年代前半のアメリカがどこか一過性の段階にあると見ていた。旧来の資本主義秩序は明らかに病んでいて、事務方がオーナーの代わりに着実に力を伸ばしている。だが、新しい支配階層を形作るプロセスはまだ完了していない。いたるところで生産手段を支配する権限が事務方に移行しつつあるけれども、「強大な力を持つブルジョワジーと金融資本家が今でも米国の支配階級であることに変わりはない」とバーナムは書いている。ニューディール主義は資本主義に完全に置き換わることのできる「成熟し、体系化された事務方イデオロギー」ではまだなかった。

 

しまし、バーナムが今でも生きていれば、ウォークネスをまさしくそうしたものだと捕えたかもしれない。すなわち、新しい事務方階級を代表して、それ自体で社会を支配する権利を主張できる体系化された事務方イデオロギーである。戦間期やニューディール時代にバーナムのような思想家を悩ませ、または魅了したダイナミズムの多くが、肥大した形で今日また現れているようなのである。

 

所有権と支配の話に戻ろう。実業界で発生した数多くの論争を見てもわかるように、ウォークネスは財産権をはく奪する働きをしている。最近マイクロソフト社に買収された巨大ゲーム会社のアクティヴィジョン・ブリザード社の運命について考えてみよう。何人もの元社員が、同社のカリフォルニア・オフィスにおけるハラスメントと男子学生社交クラブ的文化について告発の声をあげた。それを受けて、同社はさまざまな方向から攻撃を受けた。まず、カリフォルニア州が同社を告訴した。次に、メディアが熱心に報じ始めた。さまざまなNGOと活動家組織がこの論争に飛びつき、証券取引委員会は調査を開始した。同社に対する元々の告発は職場でのセクハラに関するもののみだったが、アクティヴィジョン・ブリザード社に突きつけられた要求のリストはすぐに最初の罪を超えたものに伸びた。問題を起こした社員を解雇して単に職場改革を実施しただけではすまなかった。アクティヴィジョン・ブリザード社は、さまざまな”多様性”の目標基準を満たすために、社内的な採用・解雇の意思決定をある種のパブリック・レビューに委ねなければならなくなった。この論争の行間を読み取れば、会社のオーナーがその雇用プロセスを他の事務方機関にレビューしてもらわなければならなくなったことは明らかである。

 

ウォークネスが社会に課す主要な実務的要求は、以前は独立していた社会的プロセスと経済的プロセスに事務方が介入できる範囲を大幅に拡大することである。アクティヴィジョン・ブリザードについて言えば、職場環境に関する論争が、従来のものに取って代わる新しい人事の仕組みを実行に移すための戦いとなった。この新しい人事の仕組みには会社の経営陣のコントロールが及ばず、また会社はそれに対してある種のイデオロギー的みかじめ料を支払わなければならない。これが実質的に意味するところは、些細とは言い難い財産権の放棄である。あなたは会社のオーナーかもしれない。しかし、外部の審査委員会の“助け”を借りることなく、思いどおりに会社を経営できると思ったら大間違いだ。忍び寄る介入の例をもう1つあげよう。いわゆる人種的公正コンサルタントを雇用するというハリウッドのトレンドである。映画やテレビドラマにさまざまなマイノリティ出自の俳優が適正に起用されていることを確認するコンサルタントである。かつての脚本家は、感情移入や想像力といった生々しくて公正さとは無関係な手段を活用して、プロットを構成し、登場人物を肉付けしていた。こうした手法はますます許されなくなってきている。さまざまなマイノリティ出自の登場人物をシナリオに含めることが奨励されているだけでなく要求されているのである。それも、仲裁的コンサルタントを依頼した上で行わなければならない。今や物を書くにも道徳的事務方階級の介入が必要とされるのである。

 

こうして見ると、ウォークネスは単なる学問的なイデオロギーではない。実際のところ、ウォークな人々は彼らの想定についてソクラテス式問答を行うことには興味を示さない傾向がある。2017年、フェミニスト哲学誌の『ハイパティア』は大規模な論争に巻き込まれた。ライターのレベッカ・テュヴェルが、トランスレイシャリズム[注5]もトランスジェンダリズムと同様の哲学的地位を与えられるべきだと論ずる記事を発表したのである。テュヴェルは社会的カテゴリを乗り越える人々の哲学的な意味を探るために真摯な議論をしているようであったが、その取り組みにより彼女はつまはじき者となった。

 

注5: たとえば生物学的に白人であっても、その人が黒人であると自認しているのであれば黒人であるとする考え方。

 

ウォーク・イデオロギーは学術的な議論にはほとんど役に立たないかもしれないが、組織に対する支配を確立するのにはかなり長けている。ウォークな論争を組織内の採用・解雇の特権に関する闘争と分けて考えることは不可能だ。原理に関する闘争のようにも見えるが、それは同時に制度的な特権と資源へのアクセスに関する闘争でもあるのだ。

 

バーナムが予期した事務方イデオロギーと同じように、ウォークネスは所有権に優先されるさまざまな権利を主張し、こうした権利の実現を監視するための恒久的な事務方階層の創出を要求する。介入の傾向は現代社会のほぼすべての側面に及ぶ。そこには、かつては政治システムの基礎をなすとみなされていた分野も含まれる。たとえば、民主主義が適切に機能するには、さまざまな形の介入が必要であると考えられるようになった。事務方の関与がなければ、一般大衆のむき出しの表出が逸脱行為、たとえばドナルド・トランプの選出やEUを離脱するという英国の決定につながるというのである。暗愚に違いない有権者にどの政治的質問や問題の決定権をまかせてもOKなのか。それを判断する専門家の存在を必須のものにしようとする声は大きくなるばかりだ。

 

専門家の指導に頼ることで、議論の分かれる問題を公開の討論の俎上に載せないようにしたいという強い衝動は、さまざまな形をとって現れている。たとえば、エクスティンクション・レベリオンだ。これは、ごく一部で高い支持を持つにすぎない急進的な環境団体だ。だが、彼らが壊れていると信じる政治体制を、こうした考えに沿って修正するためのビジョンを明確に打ち出している。エクスティンクション・レベリオンが構想するのは “市民議会”の導入だ。この市民議会は、市民の代表者からなる“ミニ公衆”によって構成される。このミニ公衆は専門家階級が選択した情報を受け取り、それに基づいてさまざまな推薦事項を練り上げる。専門家は、ミニ公衆の(拘束力のない)推奨事項に耳を傾けた後、何が最善かについて意思決定を下す。

 

しかし、なぜアメリカはヨーロッパ諸国よりウォーク化が進んだのだろうか。同性婚など進歩主義イデオロギーの政策の多くは、欧州ではアメリカよりも早く達成されており、また、ヨーロッパ大陸と北アメリカ大陸はよく似た考え方を共有しているのに。

 

私の考えでは、この状況の原因の1つは、アメリカの事務方階級が持つ物欲的な不安感である。ピーター・ターチン[注6]が主張するように、事務方階級に属する人の数が増えすぎたため、彼らの高い経済的期待を満たすような形で彼らを社会に吸収することができなくなったのだ。たとえば、米国に比べてスウェーデンにおける二極化の進行ははるかに遅く、文化的な環境もかなり穏やかである。スウェーデンでは、事務方階級の子弟たちにあらゆる種類の仕事を提供するために、巨大な政府機構を動かしている。私の住むウプサラはネバダ州リノの3分の2の規模の市だが、100人近くの「コミュニケーター」を雇っている。彼らの公式な仕事のほとんどを占めるのは、市のソーシャル・メディアのアカウントを管理することと、政策文書を書くことである。コミュニケーション部局は機能不全に陥っていることで悪い意味で有名である。市は、これらのスタッフが1日中何をしているのか調べるために外部のコンサルタントを雇った。しかし、少なくともある意味では、コミュニケーション部局はやるべきことをやっていた。それはすなわち、この職に就いていなければ失業者となり、社会的な扇動者になりかねなかった大学卒業生に不要不急の仕事を提供したのである。

 

注6: Peter Turchin (1957-) は歴史動態を数学的にモデル化することを専門とする複雑系科学者。

 

スウェーデンには、さまざまな税金、民間委託、手数料、その他の便宜があふれている。それらすべてが合わさって、アーティスト、役人、ジェンダー学専攻の大卒者、活動家、学芸員、マインドフルネス・コンサルタント、環境保護推進者などを雇用する巨大なパトロン機関ができあがっている。同国政府は芸術、教育、NGO、そしてジャーナリズムにまで気前よく金を出している。スウェーデンの主要紙のほとんどは、助成金がなければ黒字経営ができない。スウェーデンの政治経済を最もよく表しているのは、スウェーデン人は1ガロンのガソリンに対して約9ドルを支払っているという事実である[注: アメリカでは約3.5ドル]。ガソリン代がこれほど大きく違う原因は、社会事業に必要な資金を生み出すための税金や手数料にほぼ帰することができる。ガソリン税が導入された当初の目的は、主に道路維持費を賄うためだった。今では人々は環境問題に対処する資金を捻出するためのガソリン税を上げるべきだと議論している。こうした環境問題に携わる事務方は、ブルーカラーの地方在住者に逆累進の税金を課すことで自分たちに資金が回ってくるように企てている。

 

これは注目に値することだが、スウェーデンではカール・リンネの記念碑を取り壊す計画はない。偶像破壊と像の引き倒しの熱狂がアメリカを席巻していたときですら、スウェーデンの活動家は像の除去についてオンライン投票を行い、過半数の支持が得られないとわかるとそれをあきらめることでよしとした。像の引き倒しは、それを所有する市が自分の雇用主になる可能性が高い場合にはそれほど魅力的ではないのである。

 

もともとはこの目的を念頭に設計されたものではなかったとしても、一般的にヨーロッパの社会民主主義福祉国家は大卒で野心のある事務方階級に新しい形の福祉を提供するようになった。労働者と資本家の間の格差を取り除くことが当初の目的だった積極的な租税政策は改変され、地方の小規模事業主や労働者に最もひどい打撃を与え、快適な都会に住む人々にさまざまな助成金や税の優遇を提供するものになった。環境保護主義は、社会への介入が増大し続けることに対するもっともらしい言い訳を都市生活者に提供した。環境問題を重視する欧州の政党の支持基盤のほとんどが、都市に住む裕福な高学歴者で構成されていることは偶然ではないのである。

 

これとは対照的に、米国では公共部門の閑職が存在しないわけではないものの、人を遊ばせないでおくためだけの無意味な仕事の広まりが文化として根付くとは思えない。それは、深く染みついた文化的な通念にもその他の実務的な見解にも反するからである。米国の社会保障制度の範囲はより狭い(ただし、米国の社会保障制度は常に実際より低く評価されてきたし、欧州の社会保障制度よりも再分配指向であるのは事実である)。さらに、米国はより連邦主義的である。すなわち、ある人口集団から別の人口集団にリソースを移すような国家主導の大規模なプロジェクトの実行がより難しいのである。欧州では、経済における事務方の支配的立場は、責任ある福祉国家の自然な帰結として正当化されうる。欧州のウォーク派は、追いはぎに身を落とすことはほとんどない。事務方の取り組みに資金が必要なら、ガソリン税を上げるように求めればいいだけなのである。米国では、ウォークな事務方の介入は民間の企業や組織への強請(ゆす)りに似ている。

 

事務方社会の未来はどうなるのだろうか。[米国に追随する]欧州の動きは今後も衰えることがないのだろうか。米国は、その比類なき独自性を捨て、憲法の意図するところを乗り越え、徴税、あるいはおそらくは貢物の取り立てとでもいうものによって、事務方国家を拡張する資金獲得のための統一制度を生み出すだろうか。

 

おそらくそうはならないだろう。ヨーロッパでは、福祉国家への幻滅が広がる中で、事務方は反発に直面している。逆累進の税金が燃料価格の高騰に対する抗議活動に火をつけた。スウェーデン、フィンランド、アイルランド、そして最も激しかったのがフランスだ。今後数年間で、階級間や政治的陣営間での大規模な対立をヨーロッパが回避できる理由は特にない。それどころか、黄色いベストの反乱は欧州諸国に広がりつつある動きを前もって示したことになるだろう。

 

一方、米国とカナダでは、大きな労働組合の管理構造の傘に入っていない労働者は、専門家による介入に抵抗を始めているようだ。左派は常にこう教えられてきた。高い教育を受けた前衛のリーダーシップと組織を失えば、労働者は自分たちの声を届けることのできないのろまな木偶の坊(でくのぼう)に退化してしまうと。だが、これが間違いであることは証明された。今後は、労働者にさらなる制限を課そうとする事務方と労働者との間で対立が激化することは間違いない。

 

資本のオーナーに関してはどうだろうか。小規模事業主は反動の忠実な培養器であり、常に勤労者の反対側につくという極左の古い思い込みは、今後数年間で否定されるかもしれない。下級の資本家に関していえば、事務方体制はたいした褒美を用意できないばかりか、増殖する事務管理職階級の飽くなき要求により維持不可能な財務的負担が彼らに課されることになるだろう。また、アクティヴィジョン・ブリザード社の悲惨な運命は、非常に大きな企業ですらも、資本家と事務方が必ずしも幸せな共生関係を築けるわけではないことを示している。その関係は、対立と寄生にますます特徴づけられるものとなっているのである。

 

要するに、ウォークな事務方は新しい政治的・社会的秩序を強要したいと考えているのだ。事務方主義は介入を必要とする。そして、介入には正当化されたイデオロギーが必要だ。ウォークネスは、ニューディール主義が1940年代にけっして試みようとしなかったことを達成した。すなわち、制度的な破壊と過剰な権限拡大のほぼすべての行為を正当化できる、包括的で、柔軟で、冷酷なイデオロギーとなったのだ。しかし、ひび割れは既に現れはじめている。ガソリンの値段が高騰し、インフレーションが猛威を奮う今、事務方主義に内在する矛盾は激しくなるばかりだろう。ウォークネスがほんとうに100年近く前にバーナムが予期した事務方主義の (レーニンの言葉を借りれば)「最高の段階」であるなら、革命家でなくても次のような質問を思いつく。それはどれほど長続きするのであろうか、と。

 

(翻訳ここまで)

 

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ジェイク・エーデルスタインの『Tokyo Vice』を事情通がこき下ろす

今年の4月から米国HBO MaxでTVドラマ『Tokyo Vice』(トウキョウ バイス)が放映された。舞台は1999年の東京。主人公は、ヤクザなどが蠢く日本のアンダーグラウンド社会に足を踏み入れたアメリカ人新聞記者だ。主演はアンセル・エルゴートで、渡辺謙や菊地凛子が脇を固める。

 

原作となる同名の回想録を書いたのはジェイク・エーデルスタインだ。来日後に上智大学で日本文学を学び、1992年に欧米人として初めて読売新聞の社員となり、12年間勤務した男である。

 

ドラマ『Tokyo Vice』のレビューはおおむね好評だ。映画評論サイトの Rotten Tomatoes によれば、平均評価点は10点中7.6点。同サイトの評論家コンセンサスにはこう書かれている。「『Tokyo Vice』で最も興味をそそらない要素は主人公である。だが、日本のアンダーワールドの複雑怪奇さとその背景の迫真性により、魅力的なネオ・ノワールに仕上がっている」。

 

さて、ドラマの成功とは裏腹に、原作の『Tokyo Vice』には以前からよくない噂が付きまとっていた。作者のジェイク・エーデルスタインはこの本に書かれていることはすべて実際に起きたことだと主張しているのだが(注)、そんな荒唐無稽な話が本当であるはずがないと疑問視する声があがっていたのだ。インターネットでは彼を揶揄して「ジェイク・ザ・フェイク」(いかさま野郎のジェイク)と呼ぶ人もいる。

 

注: 情報提供者の保護のために名前と国籍は変更したとしている。

 

今年の4月、『Tokyo Vice』の放映開始に合わせて、米国のハリウッド・リポーター誌が彼に取材し、「『Tokyo Vice』の原作を事情通がこき下ろす」という記事を公開した。つまり、ドラマの下敷きとなったエーデルスタインの回想録には真実性が欠けているのではないかというのだ。おもしろい記事だったのでここに要約して紹介したい。

 

執筆したガヴィン・J・ブレア記者は、2009年に日本外国特派員協会で開かれたエーデルスタインの記者会見に出席して同協会の会報誌に記事を書き、2013年には『Tokyo Vice』の映画化の可能性についてハリウッド・リポーター誌に寄稿したこともある(映画化は実現しなかった)。

 

今回翻訳する記事が同誌で最初に公開されたのは2022年4月27日。オンライン版の記事ではその後いくつか追記がなされているようである。

 

www.hollywoodreporter.com

 

(記事の要約ここから)

 

『Tokyo Vice』の原作を事情通がこき下ろす

 

2001年、後藤組の組長であった後藤忠政らは肝臓移植の手術を行うために渡米した。後藤は手術を行った病院に多額の寄付を行ったほか、入国を認めてもらうために連邦捜査局との間で山口組の内部情報を提供するなどの取引を行った。

 

後藤組は暴力団の不文律 (一般人を不必要に傷つけないなど) を無視することで知られる存在だったが、エーデルスタインはリスクを冒して記事を書き、その成功によって日本の闇社会にひるむことなく立ち向かうジャーナリストとしての評価を確立した。

 

読売新聞を退社後、エーデルスタインはデイリー・ビーストやLAタイムズなどに寄稿するフリーランス・ジャーナリストとなり、本も何冊か書いた。もっとも有名なのが2009年に出版された『Tokyo Vice』である。しかし、ノンフィクションとされるこの作品の真実性には長く疑問の目が向けられてきた。

 

エーデルスタインはほんとうに合気道の技を使って巨体の用心棒を倒したのか? ヤクザのスナイパーにつけ狙われたのか? 「私と寝たら情報をわたしてあげる」と女に迫られたのか? 女に札束を投げつけられて性的な奉仕を要求されたのか?

 

2022年4月の上旬、ハリウッド・リポーター誌の記者は六本木ヒルズでエーデルスタインにインタビューした。彼の回想録につきまとう疑問点について確認するためだ。エーデルスタインは魅力的な話し手だったが、2時間にわたる対話の中で話の辻褄が合わなくなることもあった。

 

エーデルスタインは、本の内容について「なんの誇張もしてない。起こったことをすべて起こったとおりに書いた」と主張した (ただし、暴力団の報復を避けるために登場人物の名前や国籍は変えてあるとしている)。

 

ドラマ『Tokyo Vice』のプロデューサーであるジョン・レッシャー (映画『バードマン』でアカデミー賞を受賞) は、エーデルスタインの本の真実性に関してこう語っている。「彼の本はドラマにインスピレーションを与えてくれたに過ぎない。ドラマ独自の設定も数多く追加されている。本の内容が本当かどうかは、エーデルスタイン本人や登場人物に聞くべきだろう。私はその場にいなかったのだ」。

 

本にもドラマにも、洒落たスーツを着こなすフランスびいきの同僚記者が登場するが、これはエーデルスタインと同時に読売新聞浦和支局に配属された辻井南青紀(つじいなおき)がモデルになっている。本では彼のニックネームは「フレンチー」、ドラマでは「タンタン」だ。

 

現在は小説家となり、京都芸術大学で教鞭も執る辻井は、「誰も私のことをフレンチーとは呼ばなかったし、新聞記者はみんな特徴のないスーツを着ていた」と語る。

 

辻井は長時間にわたるビデオ電話と2本のメールでエーデルスタインに対する賞賛の気持ちと好意を強調した。「後藤組について書くのは彼にとって危険なことだった。ほとんどの日本人ジャーナリストは、脅迫を受けたらあきらめていただろう」。

 

しかし、辻井はジャーナリストとして働いた経験があり、現在は小説家であるだけでなく小説について教える立場だ。ジャーナリズムと創作の違いを理解しているのである。

 

「日本はシステムに従って働く国だ。あの本の内容の一部は、書かれたとおりに起こったのではないだろう。まちがいなく誇張はある。だが、そこがジェイクの持ち味だ」。

 

エーデルスタインの回想録の最初の方に、読売新聞で働き始めた年の忘年会で彼と彼の同僚が大立ち回りを演じたという記述がある。その忘年会に出席していた辻井はそんな喧嘩を見た記憶がないという。

 

(記事の公開後、「その年の忘年会には出席してたというのは記憶間違いで、実際は出席しなかった」というメールが辻井から届いた)

 

エーデルスタインは、今回のインタビューでも、こうした喧嘩はしょっちゅう起こっていたと語った。「私たちの忘年会は暴力的だった。読売は軍隊のようだった。体育会のメンタリティを持っている人間がたくさんいた」。

 

また、記者一年生のエーデルスタインは、上司の許可を得て殺人容疑者の友人のイラン人に扮し、おとり取材を行ったという。

 

「読売の記者がおとり取材を許されるなどということは絶対にない。そんなことを上司に頼みもしないだろう」と辻井は言う。「日本では警察すらおとり捜査を行わない。最近少し法律が変わったけれども、おとり捜査は非合法で、そんな方法で証拠を集めることはできない。読売はそうしたことには非常に厳しかった」。

 

(記事の公開後、「ジェイクがおとり取材を行ったかどうかについて真実性を否定したわけではない」というメールが辻井から届いた)

 

エーデルスタインは、おとり取材の話は本当だという。「情報を得るにあたってルールなどなかった。情報を買う以外はなんでも許された」。しかし、その後の質問にはこう答えている。「行動規範やジャーナリズム精神について書かれた小冊子があって、読売はそれをバカみたいに真剣にとらえていた」。

 

『Tokyo Vice』の本の冒頭に、後藤組の仕事人が面とむかってエーデルスタインを脅迫するシーンがある。「記事を消せ。さもなくばお前が消されるだろう。おそらくお前の家族や友人も」。

 

このときエーデルスタインのそばには刑事がいたのである(ドラマでは渡辺謙が演じている)。刑事の面前でヤクザがそんなことを言うだろうか。この疑問について彼はこう答える。「ちょっと違う言い方だったかもしれない。『記事が消えるか、何か別のものが消えるか。お前にも家族がいるだろう? 』みたいな」。

 

彼の回想録によれば、2008年5月から5年間、彼は警視庁の保護下にあったという。後藤組の襲撃から身を守るためだ。しかし、この期間中、彼が命を狙われているにしては派手な暮らしをしていたことを多くの人が目撃している。

 

2009年11月、CBSの『60ミニッツ』という番組でエーデルスタインはインタビューを受けた。「生き延びるために何をしたのか」という質問に彼はこう答えている。「部屋のシャッターを下ろしたままにしておく必要がある。どこかの建物からスナイパーが狙っているかもしれないからね」。

 

ヤクザが使う凶器は一般的に刃物かピストルだ。ヤクザがスナイパーを雇ったという話は聞いたことがない。この事実をハリウッド・リポーター誌の記者に突きつけられたエーデルスタインは、最初はスナイパーの話をした事実を否定した。しかし、すぐに冗談を言っただけだと話を変えた。「こんな話を真剣に受け取る人がいるなんて思わなかったよ」。

 

エーデルスタインは、匿名の情報源から得たとする一風変わった話をニュース記事によく引用する。これについては東京在住の外国人記者などさまざまな人が首をかしげてきた。引用されるのは、ヤクザ、警察、政治家、公務員、一般人などの発言だ。ハリウッド・リポーター誌の記者は、エーデルスタインがLAタイムズ、アジア・タイムズ、デイリー・テレグラフ、フォーブス、アトランティック、そしてアジア・パシフィック・ジャーナルに書いた記事の中から、こうした引用が含まれるものを25本選び、彼に質問を投げかけた。

 

インタビューの最後に、エーデルスタインは記者を自宅に招待する。3日後に来てくれれば、匿名の情報源の存在を検証できるように、取材メモやその他の資料を用意しておくというのだ。しかし、翌日、彼からメールが届く。準備に時間がかかるので日程を2週間後にずらしてほしい。そして、弁護士が作った機密保持契約に署名してほしい、という。最終的に、自宅訪問の約束は当日、直前になってキャンセルされた。

 

(4月20日、ハリウッド・リポーター誌の親会社の上級役員にエーデルスタインからメッセージが届いた。「日本では、警官や公務員が記者に機密情報を漏らすと公務員法に違反することになる。私の良心として、情報源をシェアすることはできない」)

 

エーデルスタインの情報源からはときどき思いもよらない言葉が飛び出してくる。たとえば、デイリー・ビーストで2014年3月に公開された記事には、上納金を納めなければならないのに脅迫するときに暴力団の名前を使えないとこぼすヤクザが出てくる。「マクドナルドの店舗を運営するのに、ゴールデンアーチ (マクドナルドのロゴ) を使えないなんてことがあるかね」。同様のセリフは、2015年のジャパン・タイムズの記事にも、2017年4月のワシントン・ポストの記事にも出てくる。見たところ、異なる2人のヤクザが同じ表現を使っているようなのである。

 

エーデルスタインのヤクザ関連の功績や人脈についての疑念は、早くも2010年に出てきている。ナショナル・ジオグラフィックが『東京の犯罪の親玉たち』(Crime Lords of Tokyo) というドキュメンタリーのために彼をコンサルタント兼フィクサーとして雇ったときのことだ。ディレクター兼プロデューサーのフィリップ・デイは、エーデルスタイン自身や、『Tokyo Vice』に繰り返し登場する個性豊かな人々に会えることを楽しみにしていた。

 

しかし、制作チームは、東京に着く前からエーデルスタインについて疑念を抱き始めていた。彼が電話をかけてきて、「町でヤクザに電話帳で殴られた」と言うのだ。「その口ぶりからして、彼が本当のことを言っているとは到底思えなかった」とデイは述懐する。

 

プロデューサーのカルダー・グリーンウッドはエーデルスタインの第一印象についてこう話す。「彼の服装や物腰はだらしなくてがさつだった。カリスマ性などまったくなかった。現実のエーデルスタインは本に描かれたヒーローとはかけ離れた存在だった」。

 

仕事に直結することについて言えば、ナショナル・ジオグラフィックの制作チームは、彼らが期待しているヤクザの人脈などエーデルスタインは実は持っていないのではないかと疑うようになる。

 

デイによれば、エーデルスタインの戦略はこうだった。まず、ヤクザの周辺人物の何人かに会ってインタビューする。そこから、最終的に年老いた元ヤクザにつなげてもらうのだ。この元ヤクザという男は、一時期エーデルスタインの運転手として働いていた男だという(エーデルスタインによれば用心の役割も担っていた)。しかし、この男が足を洗ったのはかなり前のことであり、制作チームが番組の中心に据える「犯罪世界のインサイダー」には程遠かった。

 

制作チームとエーデルスタインの間にひびが入り始める。エーデルスタインは3週間の撮影スケジュールの半ばで突然、娘の誕生日があるから米国に行かないといけないと言い出す。「願ってもないことだったよ」とデイは言う。制作チームはすぐに別のフィクサーを雇って撮影を続けた。

 

新しいフィクサーの助けを得て、制作チームは3人の現役ヤクザ (2人の兄弟と1人の大物ヤクザ) との接触に成功する。元ヤクザの僧侶やヤクザに誘拐されたことのある女性の話を聞くこともできた。

 

米国から戻ってきたエーデルスタインは、番組の進捗状況に喜ぶどころか、激怒したという。デイはこう言う。「次に何が起こったかというと、ナショナル・ジオグラフィック経由で聞いたのだが、エーデルスタインはフォックス (当時のナショナル・ジオグラフィックの親会社) に連絡して、私たちがインタビューしたヤクザの兄弟が夜中にやってきて彼を殺すと脅したと言ったらしい 。私は一瞬たりともそんな話を信じなかったね。一瞬たりともだ。たわ言を言うなと私は彼に言った。彼はそれを面白く思わなかったようだね」。

 

それがきっかけとなって (とデイは考えている)、エーデルスタインはコロンビア特別区でナショナル・ジオグラフィックを訴えた。

 

訴状によれば、番組が放送されれば、エーデルスタインと番組に登場した人々の命が危険にさらされるという。また、番組がインタビューしたヤクザが出演の同意を取り消したという。エーデルスタインは、番組のスタッフとして働くことには同意したが、ヤクザの構成員や現在ヤクザとつきあいのある人物はインタビューできないことにプロデューサーとの間で合意していたと主張した。

 

翌月、訴訟の決着がつき、確定力のある決定として退けられた。すなわち、エーデルスタインはこの件について再び訴えることはできないということだ。番組は2014年に放映された。

 

「エーデルスタインはあの運転手については知っていたかもしれない。だが、他のヤクザは誰一人知らなかったと私は思う」とデイは言う。「あの本に書かれたことの半分は実際に起きたことではないだろう。彼の想像力の産物だ。フィクションだよ」

 

公正を期すために、エーデルスタインが命を狙われていたという主張を支持する人がいることも記事では触れられている。彼の知人で米国海兵隊の元大佐であり、モルガン・スタンレー日本支社のセキュリティ・アドバイザーを何年も務めたグラント・ニューシャムは、「後藤が彼を殺さなかったのは驚きだ。逃げおおせると思ったら後藤は実際にやっていただろうね」。

 

記事の公開後、デイのコメントについてエーデルスタインは彼のブログでこう反応している。「デイ氏は情報源を秘匿するという合意を破った。そのせいで訴訟が起きた」。

 

彼の弁護士はこう付け加えている。「ナショナル・ジオグラフィックの信用のために申し上げるが、訴訟が起こされ、交渉がデイ氏の手を離れた後、両者が納得できる大筋の合意に至るまで番組のプレミアを延期するなど、ナショナル・ジオグラフィックは責任ある態度で物事を処理した」

 

エーデルスタインも『Tokyo Vice』の中でこう書いている。「私に秘密を打ち明けてくれた人々を特に犯罪組織の報復から守るために出来事を改変したのだが、その理由を説明するのには非常に苦労した」。

 

(記事の要約ここまで)

 

最後に、このハリウッド・リポーター誌の記事が公開されたときの日本在住外国人のツイートをいくつかご紹介して、このブログ記事を締めくくることにしたい。

 

Wataru氏

彼らのヒーローであるエーデルスタインを批判したことで私は友人を失った。こうした形で彼が暴かれるのを見るのはとても素晴らしい。

 

Electric Railfan氏

『Tokyo Vice』とその著者ジェイク・エーデルスタインのフィクションのいくつかを露 (あらわ) にするという点で、記者はいい仕事をした。本に描かれていることの多くがほぼ間違いなく実際に起きたことではないことを考えれば、どこから始めればいいか決めるのは難しかったはずだ。

 

Dr. SkyNet, 2°氏

私は2010年代の前半に彼と東京で何度もあった。彼は自己宣伝に熱心な鼻もちならない40代の変わり者で、いつも大学生ぐらいの子たちとつるんでいるようだった。日本人は彼にとてもうんざりしていた。振り返ってみれば、彼は社会正義戦士の原型だったと思う。

 

Oliver Jia氏 (上のDr. SkyNet, 2°氏のツイートへのレスとして)

あなたの 言っていることは正しいと思う。そして、彼のでまかせの話を喜んで読んでいるのもおそらく大学生の子たちだろう。

 

以上