アビゲイル・シュライアーの『Irreversible Damage』を読みました

アビゲイル・シュライアーの『Irreversible Damage』を読んだ。ご存じの方も多いと思うが、先日KADOKAWAが翻訳本の出版をアナウンスしたが、抗議にあって短期間のうちに出版を取りやめたという本である。

 

私自身はシュライアーが原書の発売時におそらくプロモーションとして出演した 動画を訳していたので、概要はわかった気になっていたのだが、今回日本でも大騒ぎになったということで自分でもしっかり読んでみることにした。

 

読んでみた感想だが、この本には少なくとも思春期の子供を持つ親の年代の人にすればまったくもって常識的なことしか書かれていない。ではなぜこの本が「反トランス」とか「差別的」とかセンセーショナルに叩かれるのか。それは活動家の教義に反することが書いてあるからだ。

 

ではその活動家の教義とは何か。ジェンダー肯定ケアである。思春期の少女が自分は男性だと考えれば医師はそれをそのまま肯定し、医療サービスのオプションを提示する。患者の自己診断が常に最優先。他の病気のように患者の訴えをきいて医師が他の原因があるのではないかと疑うようなことはしない。

 

留保のない全面的なサポートが親にも求められる。疑問をさしはさもうものなら娘は自傷・自殺に走るだろうと医療関係者は言う。親のあずかり知らぬところで学校は子供たちに医療へのアクセスを与え、子供の選んだ名前や代名詞で呼ぶ。親にとっては非常に心配な教育機関の方針である。

 

この本は、トランスジェンダーの子供を持つ親、医療関係者や専門家(肯定ケア推進派・懐疑派両方)、思春期にジェンダーを変えたが現在は元のジェンダーに戻った人々へのインタビューから構成される。文章のトーンは冷静でトランスジェンダー当事者への配慮を最大限払っていると感じられた。

 

KADOKAWAの翻訳本のタイトルは、『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』という。ここに「感染」という言葉が使われているという批判があったが、原書の本文でも「Contagion」という言葉は使われている。ただし、これは病原菌を介して感染するという意味ではなく社会的感染のこと。原書では「Peer Contagion」という形で出てくる。Peerは「仲間」の意。

 

かつてはジェンダー変更を望むのはほぼ男子だったのだが、ここ十数年でジェンダー変更を望む思春期の少女が大きく増えた。彼女たちの多くは白人で裕福でリベラルな家庭に育っている。また、仲間にトランスジェンダーが既にいる場合、まわりの子がトランスを望む率も高い。

 

本書にも登場するブラウン大のリットマン実務助教授(当時)はこの現象を急速発症性性別違和(ROGD)と名付けた。本書を批判する人はROGDが専門機関に認められておらず信頼できる科学的証拠に基づいていないとするのだが、上述のような観察可能な現象が存在することに疑いはない。 

 

また、シュライアーが本書でトランス当事者の少女の話を聞いていないという批判もあるのだが、彼女たちの話を聞くわけにはいかないのである。なぜなら、活動家たちの教義によれば、彼女たちの話をそのまま受け入れず、疑義をはさんだり深堀りすること自体が差別的で有害だとみなされてしまうからだ。

 

著者は少女たちを守るための第一の方策はスマートフォンを与えないことであるという。少女はSNSでトランスジェンダーやアライのコミュニティに参加する。参加者には大人も多い。そこはすべてを受け入れてくれる場所のように少女には見える。大人たちは褒めたり叱ったりしながら親の知らないところで少女を取り込んでいく。

 

本書がアニメを批判していると言っている人が一部にいるが、それは間違い。本文中でアニメに言及されているのは2か所だけ。どちらも親の話として子供がアニメを好きになったと軽く触れられているだけ。親もそれ以上のことは言っていないし、著者のシュライアーも掘り下げることはまったくしていない。

 

翻訳本の副題に「ブーム」という言葉があるのも批判されたが、これも原書副題の"Craze"の訳と考えればそれほど大きく外れてはいない。だが、それにしても今回のKADOKAWAの対応はお粗末。デリケートなテーマだとわかっていながら、「社内でちゃんと話を通していなかったのか?」「理論武装していなかったのか?」と思う。

 

私はイギリス版で読んだのだが、その表紙にはアイルランド人ジャーナリストでトランスジェンダー権利運動の批判で知られるヘレン・ジョイスの「すべての親が読むべき本」という推薦文がついている。私もこれに全面的に賛成する。

 

この本はイギリスではタイムズ紙やエコノミスト紙が年間の優良図書のリストに加え、アイルランド全国紙のアイリッシュ・インデペンデントも好意的なレビューを掲載した。この本についてはアメリカとヨーロッパでは大きな温度差があるようだ。あるいは北米とその他の地域といったほうがいいか。