伊藤詩織氏のBBC『日本の秘められた恥』での発言について(特に「sexual assault」と「everyone」の訳について)

2018年にBBCで放映された『日本の秘められた恥』(原題: Japan’s Secret Shame) という番組が、最近またツイッターなどで議論の的になっている。この番組は、性的暴行を受けた(と主張する)伊藤詩織氏を追ったドキュメンタリーである。


www.bbc.com


議論の的になっているのは、上記のBBCのページに掲載された、上から2番目の動画。この動画で、伊藤氏は英語でこう語る。

If you grow up in Japanese society, everyone have experienced sexual violence, or sexual assault, but not everyone consider it was. Especially when you start using public transportation as a high-school girl. That's when it happens every day. So whenever we go... get to the classroom, that was always the topic: today, this man jerked off on me, today this man cut my skirt. But this was something that we have to deal with. We never reported it.


これに対して、BBCは字幕をこうつけている。

日本社会で育つと誰でも性暴力や性的暴行を経験しているんです
ただし自分が被害に遭ったんだと全員がそう思うわけでもない
特に女子高生として交通機関を使うようになると
そこから毎日そういう目に遭うようになるんです
だから毎朝教室に着くたびにいつもその話題で持ち切りでした
今日はどんな男が自分の上にかけてきたとか
今日は別の男にスカートを切られたとか
でもそういうものだと受け止めるしかなかった
通報なんかしませんでした


この伊藤氏の発言を問題視してツイッター等で抗議の声を上げているのは、shin氏(@shin_shr190506)やSachi氏(@sachihirayama)である。両氏の主張は、私の理解するところによれば、伊藤氏は日本の性被害の状況を、事実に反して、または誇張して表現しており、それによって間違ったイメージを日本人(主に女性)に抱いた外国人が、日本人(主に女性)に実際に性的な害を加える可能性が高まる、というものである。


これに関連して、カツミタカヒロ氏という方がNoteで記事を書いておられた。

note.com


タイトルが「【翻訳検証】BBC Two『Japan's Secret Shame』(2018)の番組で伊藤詩織さんが語ったことが問題視されている点 #JapansSecretShame」であり、問題となっている伊藤氏の発言が冒頭で引用されていたので、Shin氏やSachi氏への反論として書かれた文章かと思って読んでいたのだが、読んでいるうちに、どうやらそういう意図ではないのかもしれないという気もしてきた。


カツミ氏は、最初の段落で「字幕の訳が物議を醸した」(太字は筆者)とはっきりと書いており、詩織氏の英語での発言が主に英国の一般視聴者にどのような影響を与えるかを議論しているShin氏やSachi氏とは、問題意識の持ち方がまったく異なるからである。


カツミ氏は、その後の文章でも、日本語の字幕を付けるとしたら、どのような字幕が最適なのかについて詳しく議論されているので、伊藤氏の発言がSNSで議論になっていることをきっかけとして、その議論とは関係なく、字幕翻訳に関するご自身の知見を披露しようとされただけなのかもしれない。しかし、もしShin氏やSachi氏の議論への反論として書かれたのであれば、問題意識が根本からずれているので、カツミ氏の文章は残念ながら議論としてはかみ合っていない。


そのあたりを疑問として残しつつ、伊藤氏の英語での発言が(主に)イギリスの一般視聴者にどう理解されたのかを日本人に理解していただくにはどう訳せばいいのか、カツミ氏の訳を参考にさせていただきながら考えてみた(私はビジネス翻訳歴25年。母語は日本語。アイルランド在住28年です)。


始める前に、以下の2点についてご留意いただきたい。

(1) カツミ氏も、「筆者が行った原文の修正、再翻訳と再字幕化については賛否両論あるだろう。筆者もさまざまなことを勘案して類推してベストと思える、美しい翻訳を心がけたまでのことなので、批判はあって然りだと思う」と書かれている。一般に、翻訳に「賛否両論ある」「批判はあって然り」というのは私も同感であり、翻訳である以上、元の文章や話者の意図なり情緒なりを翻訳で100%伝えるのはほぼ不可能である。何かを生かすために何かを落とさなければならない場合もあれば、知らず知らずのうちに訳者がなんらかのバイアスをかけてしまう場合もある。今から私が行う翻訳や考察についても、当然、批判はあって然りと考えている。


(2) 私の考察は、「伊藤氏の英語での発言が(主に)イギリスの一般視聴者にどう理解されたのかを日本人に理解していただくにはどう訳すか」が目的であり、カツミ氏の訳は「日本人視聴者向けにどのような字幕が最適か」が目的なので、訳は違って当然である。


では始めます。

(A) 「sexual violence, or sexual assault」の訳について。伊藤氏があえて選択したのかどうかはわからないが、「sexual violence」や「sexual assault」はかなり強い言葉として英国の一般視聴者に受け止められるだろう。であれば、英国の視聴者がどのように受け止めたのかを日本人に説明する目的では、それと同じくらい強い言葉を訳語として選ぶべきである。BBC の字幕は「性暴力」「性的暴行」と言う訳語を選択しているが、英国の一般視聴者が受ける印象もこれに近いものだと私は考える。


英語の「sexual assault」も日本語の「性的暴行」も、辞書的には「望まない身体接触すべて」を指す。したがって、言葉から一般的に受ける印象とは異なるかもしれないが、痴漢も含まれる。詩織氏が、一般的には「痴漢」に対して使われる「groping」ではなく、「sexsual assault」という語感の強い語を使用したのであるから、伊藤氏が英語で何と言ったのかを日本人に伝えるには、同程度の強さを持つ「性的暴行」と訳すのがよいだろう。


カツミ氏は「長年に及ぶ筆者の人権界での経験と、様々なメディアや専門家による文献などに直接接してきたことから得られる結論」として「一般に国際社会においては”sexual assault”と認識されている暴力であり、対する正規訳は「性的加害」であると理解している」と書いておられる。そして、「sexual violence, or sexual assault」をまとめて「性的加害」と訳しておられる。人権等の専門家の間では、正規訳が「性的加害」であるのかもしれないが、オーディエンスが一般視聴者であるという事実を考えた場合、「sexual violence, or sexual assault」を「性的加害」という一般になじみのない言葉に訳すのは、英国人一般視聴者がどう感じたのかを日本人に伝える目的では不適切と考える。


(B) 「Everybody」の訳について。BBCの字幕は「誰でも性暴力や性的暴行を経験しているんです」。カツミ氏の訳は「性的加害を見聞きした経験を持つでしょう」で、「everyone」をあえて訳出していない。もちろん「Everybody」が文字どおり「全員」の意味でないことは常識で考えればほとんどの人がわかる。ただ、話している内容についてオーディエンスが認識を共有している場合にくらべて、オーディエンスが認識を共有していない場合は(日本での性暴力について話を聞いている一般英国人視聴者がそうだ)、「Everybody」が文字通りの意味なのか、強調で使われているのか、強調だとすればどの程度の強調なのか、混乱する人の割合は増えるだろう。


インタビューの中で、事実として「Everybody」という言葉は使われた。伊藤氏は性暴行の被害者(少なくともご自身はそう主張している)であると同時に、ジャーナリストでもある。ジャーナリストとしてはこの言葉の選択は精緻さに欠けるだろう。それでもこの言葉を使った。精緻さを犠牲にしてでも強調して感情に訴える方が効果的だと考えたのかもしれないし、単に英語力の問題かもしれない。だが使った事実はまちがいない。「それほど強調したいことであるのだな」と思う人もいれば、「不誠実に話を盛っているな」と受け取る人もいるだろう。それは、「Everybody」を聞いた英国人視聴者でも、「誰もが」を聞いた日本人でも同じだろう。だったら、シンプルに逐語訳で「誰もが」とすればいい話である。


(C) 「experienced」の訳をカツミ氏は「見聞きした経験」と訳されているが、この文脈で「見聞きした」の意に受け取る英国人一般視聴者は非常に少ないのではないか。


(D) 「this man cut my skirt.」の「cut」が「caught」ではないかという指摘。たしかにこれはどちらにも聞こえる。この発言の直前にあるのが「this man jerked off on me」(男に精液をかけられた) というかなりひどい被害について話しているので、それに匹敵する被害ということで「cut」の方が文脈上は可能性が高い気もするが、これはどちらにも聞こえるので意見は差し控えたい。


伊藤氏の英語での発言が(主に)イギリスの一般視聴者にどう理解されたのかを日本人に理解していただくという目的で私が訳すとすれば以下のとおり。基本的にBBCの訳を踏襲している。

日本社会で育つと誰もが性暴力や性的暴行を経験します
ただし自分が被害に遭ったんだと全員が思うわけではない
特に女子高生として交通機関を使うようになると
毎日そういう目に遭うようになります
毎朝教室に着くと、いつもその話をしました
今日はどんな男にかけられたとか
どんな男にスカートを切られたとか
でもそういうものだと受け止めるしかなかった
通報はしませんでした


また、舩田クラーセン・さやか氏という方も「everyone」と「sexual assault」の訳についてカツミ氏と同様の意見をお持ちのようである(ご本人のツイートは見つからなかったので確認していないのだが、ラサール石井氏が日刊ゲンダイに書かれた記事を参照した)。



舩田氏のご意見についても、私の意見はカツミ氏の訳文について書いた上記の文章と同じである。


以上です。


ここからは、BBCの番組を離れての余談となります。


このBBCの番組が放映されたのと同じ頃に、伊藤氏はヨーロッパのほかの番組にもいくつか出演しました。その中の1つ、北欧のトーク番組「Skavlan」(トークは英語で行われる)に出演した伊藤氏を見て、私は当時ツイートした内容を再録します。



(再録ここから)
詩織さんが出演した北欧のトーク番組「Skavlan」を見た。彼女は例によって日本の性を巡る状況が西洋と大きく違うことを印象付けようとする。ここでも刑法の性的同意年齢にのみ言及し、18歳未満との性交を刑事罰化する淫行条例の存在には触れない。この態度はあまりに不誠実。


彼女はまた、日本では女子高生にとって痴漢が日常茶飯事であり、10歳のときにはプールで体を触られたと告白する(もちろん彼女はここで視聴者が驚いてくれることを期待しているはずだ)。しかし、ここで司会者は別のゲストのイギリス人女性作家Jojo Moyesさんに話を振る。


Moyesさんは、自分も不愉快な体験を20回はしたし、話を聞いた女友だちのうち1人を除いて全員が10回以上被害にあっていると語る。夫に話したところ、夫はショックを受けていたと。被害に遭わないためのTo-Doリストがソーシャルメディアで共有されてるとか。


だから、どこの国でもそうだが、イギリスには日本人を珍獣扱いする「Japan's Secret Shame」を制作するErica Jenkinさんのような知的に不誠実な女性もいれば、Jojo Moyesさんのように国境を超えた女性の連帯を模索する誠実な女性もいるということ。


また、詩織さんのストーリーをニュートラル化するためにJojo Moyesさんを同席させて話をさせたのは、スウェーデン/ノルウェーのテレビ製作者とイギリスのテレビ製作者の誠実度の違いを示しているのかもしれない。


あと、日本では子供への性的暴行を「tricked」(いたずら)というぼかした言葉を使うと詩織さんは言っているのだが、英語でも普通に「molest」という単語を使うので、これも日本が特に特殊なわけではない。

(再録ここまで)

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