ニュー・ライン・マガジン (New Line Magazine) というオンライン英字誌に掲載された「フランスが売春所を非合法化した後も、仏軍は秘密裡に北アフリカ人女性に売春させ続けた」という記事を訳してみた。
要約:
1947年、フランス軍は何百人もの北アフリカ人女性をフランス本土に連れてきて、北アフリカ人兵士向けの秘密の売春所で働かせた。いわゆる慰安婦を認めた日本などと異なり、フランスはこの虐待制度について一切認めていない。
ニュー・ライン・マガジンはシリア系アメリカ人のハッサン・ハッサンが2020年に創刊して編集長を務めるオンライン雑誌。世界情勢に関する記事を掲載する。ハッサンは2021年のインタビューで、中東に関して古臭い見方に基づいて西洋のジャーナリストが書く記事が蔓延していることに対抗するために創刊したと述べている。
元の記事:
(翻訳ここから)
フランスが売春所を非合法化した後も、仏軍は秘密裡に北アフリカ人女性に売春させ続けた
文: キャサリン・フィップス (Catherine Phipps)
2025年8月22日公開
1947年の夏、Qui? Detective 誌の記者が、フランス南東部のフレジュス (Fréjus) という町の陸軍駐屯地の端にある売春所に足を踏み入れた。この建物がその他の角ばった醜い兵舎と違う唯一の点は、この建物だけが有刺鉄線に囲まれていることだった。彼の視界に入ったのは、膣洗浄器具と消毒液でいっぱいの戸棚や、兵士が金を払って性交したあと、細い管で陰茎の内部を洗浄する方法を説明する壁のポスターだった。メイン・ルームに入ると、その場しのぎのような木造のバー・カウンターと、寝室につながる廊下が見えた。
昼下がりにもかかわらず、売春所で働く14人の女性は眠っていた。その多くが半裸だった。水着を着た1人が隅で小説を読んでいた。夜のシフトが始まる前に鋭気を養っているのだった。彼女たちは一晩で多ければ20人もの男と性交しなければならないのだ。
駐屯地における彼女たちの存在は非合法だった。彼女たち自身が違法な行為をしていたからではない。その日売春所を訪れた記者は、前年に政府が売春所を禁止したにもかかわらず、フランス軍はモロッコ、アルジェリア、チュニジアから300人近くの女性を集め、しばしばその意志に反して軍の売春所に閉じ込めて北アフリカ人兵士にサービスを提供させている事実を、一般大衆に向けて明らかにすることになる。軍は、北アフリカ兵士の人種差別的なステレオタイプに基づき、32か所の「bordels militaires de campagne」(移動軍隊売春所、略してBMC) からなるシステムを構築した。それは、 フランス人女性の純潔を「保護」し、第二次世界大戦を戦った一般兵士をなだめるための手段であり、女性たちはほとんど監獄のような状態に隔離されていた。
Qui? Detective 誌の記者が、北アフリカ人女性でいっぱいの軍の売春所を見たのは、今回のフレジュスの BMC が初めてではなかった。記者は何年も前、モロッコのアトラス山脈で、あるテントを訪れたことがあった。そこでは女性がミント・ティーだけでなくそれ以上のサービスを兵士たちに提供していた。こうしたテントは、フランス軍が新しく獲得した領土を「平和化」するプロセスにおいて、連隊に付いて地方を移動して回っていた。
フランスは、40 年にわたるアルジェリアの「平和化」で 825,000 人を殺し、20 年にわたるモロッコの「平和化」では 100,000 人を殺した。それに続く何十年もの貧困、搾取、虐殺、戦争犯罪によってさらに多くの地元民が死んだ。それと同時に、何百人もの北アフリカの女性が、植民地支配を実行して彼女たちの同胞を殺すフランス兵士に軍の売春所で性を売ることを強要された。
BMC で働く女性は北アフリカの現地の売春所からリクルートされた。北アフリカでは性産業は合法であり、植民地の当局により管理されていた。フランスは、「規制主義」(regulationism) と呼ばれるこの性産業管理制度を、1830 年のフランス軍の侵攻とともにアルジェリアに持ち込んだ。フランスの支配が広がり、チュニジアが 1881 年、モロッコが 1912 年にフランスの勢力下に入ると、性を売る女性はすべて「fille soumise」(売春婦、直訳すると「服従的な女性」)として登録され、売春所に送られた。女性は、ときどきハマム (トルコ風の風呂) に行くことを除いては、売春所を離れることはできなかった。週末はなく、家族を訪ねることもできなかった。売春所が彼女たちの世界そのものになったのだ。
北アフリカの売春所で働く女性の多くは極貧を逃れる手段としてセックス・ワーカーとなったが、まったく望んでいなかったのにそこで働いていた者もいた。植民地警察は、売春の疑いだけで北アフリカの女性を逮捕できた。証拠は必要なかった (逮捕された女性の何人かは、性病検査のために陰部をチェックされたときに処女であったことがわかった) 。逮捕されると残酷な未来が待っていた。売春の疑いで三回逮捕されると、植民地警察はその女性を売春婦として登録し、売春所に送った。そこで女性は売春という名のもとで何年にもわたって強姦されることになった。アルジェリア、チュニジア、モロッコで、何千人もの女性がこうした目に遭った。夫や父親からの釈放を訴える嘆願書も役に立たないことが多かった。女性たちは何年にもわたって売春所に閉じ込められ、意志に反して肉体を売ることを強要された。売春所では、暴力、金銭的搾取、不同意性交が待ち受けていた。この合法化された性的虐待のシステムは、フランスの支配下で「社会衛生」の手段として導入された。これは、女性の性が絶えず取り締まられることを意味したが、さらに的を得た言い方をすれば、これが脅迫、管理、抑圧のための道具として使用される可能性があったのだ。すなわち、規則に従わないものがいれば、その妻や娘はほとんど何も与えられずに売春所に閉じ込められるかもしれない。フランス本土の BMC の女性たちはこうした売春所からリクルートされた。
アルジェリア人作家のジャーマイン・アジズは、10代のときに騙されて売春宿で働くことになり、1940年代から50年代にかけて北アフリカとフランスで性を売っていた。彼女は、北アフリカで売春を業としていた女性が軍の売春所に働きにいかされることをどれだけ怖がっていたか回想している。「年齢や人種にかかわらず、すべての女性にとって最大の恐怖だった」と彼女は書く。「アルジェリア、チュニジア、モロッコに作られたこうした売春所は砂漠にあった。軍に監視されながら、女性たちは兵士、アフリカからの部隊、そしてときどきは遊牧のアラブ人にサービスを提供した。そこで性を売っていた女性で戻ってきた者はいなかったが、何人かの男や年老いた女主人がその場所について話した。どこであってもあの監獄よりはましさ、と」。
第一次世界大戦が始まると、北アフリカ人兵士がフランス本土で戦うようになり、それに伴って売春所も本土に上陸した。売春所は「フランスの名声」を維持するために主要な駐屯地に設置された。これは、北アフリカ人男性が白人女性と性交できる場合、そして特に女性の方が関係を求めている場合は、植民地の人種的階層が崩れてしまうという広く共有された懸念を反映したものだった。ある軍報告書は「現地民および世界に対してフランスの名声を維持するには、彼らがフランス人女性と関係を持つのをできうる限り防ぐことが重要であるようだ。その女性が売春婦であってもである」と説明している。この点は特に必要であると考えられていた。あるフランス人大尉はその理由をこのように書き記している。「北アフリカでは欧州人の施設の利用が現地人には禁じられているが、兵士が北アフリカに戻ったとき、フランス女性と関係を持ったことを自慢できてしまう」 。
1943 年 3 月から 1944 年 4 月までの間に、少なくとも 141 人のモロッコ人およびアルジェリア人女性がナポリに運ばれてきた。しかし、フランス軍にとってこの人数では十分ではなかった。1944 年 4 月、軍は 150 人のアルジェリア人女性と 300 人のモロッコ人女性を追加でリクルートするようにとアルジェリアとモロッコに電報を打った。こうした数百人の北アフリカ人女性は、第二次世界大戦中、植民地兵の部隊と共にヨーロッパを旅した。
これを思いがけず目撃することになった 1 人がウィンストン・チャーチルのいとこのアニタ・レズリーである。彼女は自由フランス軍の患者搬送車の運転手だった。1948 年に出版された彼女の回想録には、イタリアでアメリカの船に乗り込もうとするモロッコ人女性の一団を見たことが書かれている。「軍属に区分された彼女たちはアメリカ人兵士のズボンを履いていた」 。それは、アマジグ族の伝統的な顔のタトゥーやイタリアの市場で手に入れたヴェールやスカーフとは際立ったコントラストをなしていた。しかし、レズリーはこうした売春所の暗い面も目撃していた。彼女は、とても若いモロッコ人の少女が軍の将校に蹴られ、怒鳴りつけられている様子を書き記している。何年も後になっても、レズリーは少女の「競りに掛けられる日の怯えた牛のような困惑した青い目」を覚えていた。「おそらく彼女は 12 歳にして彼女の同胞にサービスを提供する軍の売春所に売られたのだ」。
1946 年 4 月、フランスはマース・リシャール法を成立させた。マース・リシャールはこの法律の制定を推進した女性の名前である。彼女はパリ 4 区の議員だったが、かつては自身も売春婦であり、第一次世界大戦時にはスパイでもあった。100 年以上にわたって性産業は大っぴらに営業してきたのだったが、この法律により、フランスで非合法に店を開いていた 1400 軒の売春所が閉鎖された。
合法的な性産業の蛇口が閉じられたことは、フランス軍にとっては問題だった。北アフリカの現地人兵士は 1946 年 7 月 1 日には解散して出身地に戻ることになっていたが、船が足りなかったことから、1947 年の夏になっても約 30,000 人の北アフリカ人兵士がまだフランス本土に残っていた。彼らはひどい住環境で暮らしており、ドイツの捕虜収容所にいたときの方がましだったと言う者までいた。
モロッコ人部隊の司令官の 1 人であるパランジュ中佐は、北アフリカ人部隊がセックスなしで何か月も過ごすのは「現実的ではない」と考えていた。北アフリカ人男性の性欲に関する植民地支配者の人種差別的な考えにより、セックスを簡単に買えるようにしなければ、付近に住むフランス人女性の安全または「純潔」が危険にさらされるという新たな恐怖心が生まれていた。「私の意見では、BMC を設置することが、この国で発生する可能性のある強姦または強姦の試みを抑える最良の方法である」と彼は結論付けている。
法律を破っていることを自覚していた軍は、売春所の存在を秘密にしようとしていた。あるフランスの将軍は、こうした制度を組織するにあたっての機密のメモにおいて、北アフリカ兵士向けの BMC はフランスの売春所禁止令に違反していると説明している。そのため、軍のこの計画は、「最高レベルの慎重さをもって遂行し、人材確保の任にあたる部署以外でこの件について話すことを慎む」必要があると明確に述べている。この計画を知っているのは、北アフリカの都市にある売春所から女性をリクルートする軍の担当者と、売春所を取り仕切る女主人のみであるとされた。
フランス軍に選ばれて採用された売春所の女主人は、冷酷に BMC を支配した。売春所の細かい規則に少しでも違反すれば、女主人が女性に暴力をふるい、高額の罰金を課すこともしばしばだった。女性は外に出ることは許されず、常に監視されていた。フランス人との接触は禁じられていた。女性が手紙を送ったり、食料品や生活必需品を買いたい場合は、軍の士官を通して購入しなければならなかった。士官が手数料を要求することも多かった。
女性たちは週に 3 回の「健康診断」を義務付けられた。これは性病 (多くの場合、梅毒) にかかっていないことを確認するための陰部の検査である。膣鏡が使用され、非常に不快で、侵入的で、しばしば非人間的だった。検査を行う医師が女性を気遣うことはまれで、女性が不快でないか確認することなどなかった。こうした医師のトレーニングに使用された医療パンフレットには、ほとんどすべてのモロッコ人女性は梅毒持ちだがそれを隠そうとすると書かれていた。したがって、医師は売春所の女性を疑いの目で見ており、健康だという申告があっても嘘をついていると想定していた。コンドームはほとんど手に入らなかった。売春所にある大きな戸棚には消毒液がいっぱいだった。それを使って女性は性交後に膣洗浄することになっていた。消毒剤に含まれる過マンガン酸カリウムに焼かれた肌は紫になった。男性も同じ消毒剤で陰茎を洗浄することになっていたが、実際に行うものはほとんどいなかった。非常に不快だったし、紫色の陰茎を欲しいものなど誰もいなかったからだ。
Qui? Detective 誌の記事や機密の軍報告書によれば、BMC の利用はヨーロッパ人には完全に禁止されていた。兵士が利用できるのは毎晩 5 時から 9 時までであり、9 時半以降は士官のみが利用できた。兵士は遠くの駐屯地からも売春所を利用するためにやってきた。忙しい夜には 1 人が 20 人もの客を相手にすることがあった。女性と性交するために客の兵士が売春所に払う金は 1 ドル(70 フラン、現在のお金で 2000 円ちょっと) に満たなかった。女主人とその補佐役が分け前を取ったあと、女性たちに残されるのはその半分以下だった。
フランス軍も分け前にあずかった。女性には生活および仕事の場所として木造のバラックが与えられたが、食品、燃料、電気の代金は軍に支払う必要があった。食事は自分たちで料理しなければならず、同じ駐屯地で暮らす兵士とは別の場所で食べなければならなかった。これは、女性と兵士の関係が金銭を媒介としたもの以上に発展するのを防ぐためだった。
フランス軍は BMC を秘密にしようと手を尽くしたが、それはかなわなかった。Qui? Detective 誌の記事は大きな打撃となった。記者は BMC の全体像については知らなかった。フランスでの軍の慰安所はここだけだと考えており、32 か所もあるとは思っていなかった。それでも彼はフランス軍の偽善を批判するのに躊躇はなかった。BMC を見た記者は、その何年か前にモロッコで訪れた軍の売春所を思い出さずにはいられなかった。そこでは、伝統的なタトゥーを顎に入れた現地のアマジグ人女性が、「腰が曲がるような年齢にもかかわらず、一袋の紅茶や砂糖、ほんの少しの薪などと引き換えに、貧相な抱擁を提供していた」。劣悪な生活環境と貧困の記憶がその後何年にもわたって彼を悩ませた。フレジュスの駐屯地を歩き、女主人と会話し、売春所での女性たちの生活状態を見た後、その類似性は明らかだった。
軍のためにセックス・ワークを強制したという暗い過去は他の国にもある。特に日本による韓国人「慰安婦」の強制的売春が有名だ。しかし、ここ数十年のあいだに、こうした国々はこうした搾取や虐待に果たした役割を認め、謝罪している。一方、フランスは、こうした非合法売春所の存在や、必ずしも自分の意志ではなくそこで暮らし、働いた何百人もの北アフリカ人女性が被った影響も認めていない。
駐屯地を見た記者が1947年に書いたように、これは明らかに「政府による売春あっせん、もっといえば人身売買」だったのである。
(翻訳ここまで)
後記:
私がこの記事を訳したのは、日本にも「慰安婦」問題があったが、西洋諸国も同じようなことをやっていたじゃないか、と指摘したいためだけではありません。たとえば、ノルマンジー上陸作戦の後、アメリカ人兵士によるフランス人女性の強姦事件が多発しました (参照)。米軍上層部は、その問題を差別的にも黒人のせいだとし、組織として対処しようとしませんでした。現在でも、欧米諸国の行為にはほっかむりしたまま (または無知なまま) 「慰安婦」問題を言い募る欧米の学者やジャーナリストがいます。それは、第二次大戦時の米軍上層部と同じ態度です。戦場の性の問題は自分たちの問題ではなく特定の民族の問題だとする態度です。そうした態度に対するカウンターとして事実を提示する意味で、この記事を訳しました。