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戦時の娼家で1人の女性が相手にした兵士の数 - 他国の例

水木しげるの漫画『従軍慰安婦』には次のような描写がある。場所は第二次世界大戦時のココボ (ラバウルの近く)。「日本のピーの前には100人くらい。ナワピー(沖縄出身)は90人くらい、朝鮮ピーは80人くらいだった」「これを1人の女性で処理するのだ」(中略)「1人30分とみてもとても今日中にできるとは思われない、軽く1週間くらいかかるはずだ」。ピーとはいわゆる慰安婦を指す。

 

水木の別の漫画『総員 玉砕せよ!』では、同じココボでの話として次のような描写がある。営業終了まであと5分だというのにピー屋の前に70人ほどの兵士が並んでいる。5時になって閉店を告げられた兵士たちはもう少し営業してくれと懇願するのだが、女たちが「女郎の歌」を歌いだし、兵士も声をあわせて合唱する。翌日、「きのうはどうだった?」と仲間に聞かれた兵士は「2、3人はできたかしんねえけど、なにしろ5分間しかねえのに70人もならんでんだ。ほとんど『女郎の歌』でお別れさ」と答える。

 

水木の描写には並んでいた兵士の人数しか記載されておらず、女性が実際に1日何人を相手にしていたのかは書かれていない。ただ、現在の、そして平時の感覚からすれば、尋常な数ではないことは容易に想像がつく。

 

水木の漫画以外にも、いわゆる慰安婦が1日に何十人もの兵士の相手をしたという話がセンセーショナルに語られることがある。しかし、これは日本軍だけに限った話だったのだろうか。20世紀前半という時代、そして戦時という状況において、他の国の状況はどうだったのだろうか。いくつか調べてみた。

 

1945年8月27日、最初の占領軍向け性的慰安施設「小町園」が東京の大森海岸で開業した。神崎清の『売春』(1974年刊) によれば、小町園の「開業当時の大混乱を数字で示せば、女一人につき一日最低15人から最高60人までのアメリカ兵を相手にした」という。(p138)

 

マグヌス・ヒルシェフェルトの『戦争と性』では、第一次大戦時、べチューンという町の戦争娼家について、ある大尉 (明記されていないがおそらくドイツの大尉) の報告が紹介されている。「150人の男たちが (中略) この家の三人の娼婦の一人と寝るために、長蛇の列を作って待っていた」「商売のできる間は、女一人が一週間にほとんど一大隊全員を相手にしていた」。大隊の構成人数は一般的に300 人から 1,000 人である。 (2014年版155p)

 

同じく『戦争と性』より。ミタウという町の軍用娼家のある娼婦は、「午後4時から夜の9時までの間に32名の兵隊を客にとってい」た。また、同じ娼家で歩哨に立っていたある衛生兵によれば、彼の勤務中、6名の娼婦がとった1日の客数は、それぞれ最低で、12、10、10、10、7、6名だったという。これも第一次大戦時の話である。(P162)

 

続いて、メアリー・ルイーズ・ロバーツの『兵士とセックス』より。ある売春廃止論者によれば、第二次世界大戦のパリ解放後、非合法のアメリカ歩兵用売春宿では「1人の女性が50から60人の相手をさせられた」という。別の廃止論者はその数を60から80だと見積もる。「最盛期には、アメリカ兵の列が階段を降りてドアの外に出て、さらに角をまわったところまで続いていた」。(p181)

 

以上、私がこれらの例をここにまとめたのは、whataboutism (そっちこそどうなんだ主義) がやりたかったわけではなく、戦争時の日本の状況を20世紀前半という時代、そして戦時というコンテキストで他国と比較することにも意味があると思ったからである。

 

会場当初の小町園の様子

 

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