『三島由紀夫: 日本の文化的殉教者』というアンドリュー・ランキン氏の記事を訳してみた

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オーストラリアのオンライン・マガジン「Quillette」誌に掲載された三島由紀夫についての記事を訳してみた。執筆したのはイギリス人の日本文学研究家であるアンドリュー・ランキン氏。

 

海外で三島由紀夫がカルト的な人気を誇っているのはご存じの方も多いと思いますが、この記事を読めば、その理由が少しわかるかもしれません。

 

文中、三島の発言/文章からの引用があるのですが、日本語の原典を見つけることができなかったので、一部私なりに翻訳したものがあります。そうした箇所には「原典不明」と訳注をつけています。ご了承ください。

 

quillette.com

 

(翻訳ここから)

三島由紀夫: 日本の文化的殉教者

文: アンドリュー・ランキン (Andrew Rankin)

2019年12月11日

 

先ごろ、日本の人々は、新しい天皇である徳仁の即位を熱烈に祝福した。それを見れば、日本がどれほど皇室制度への自信を取り戻したかわかる。近年の日本において、三島由紀夫(1925–1970)の評価が再び高まっているのも偶然ではない。彼は、そうすることが扇動的だと見なされていた時代に、日本の皇室制度の文化的重要性を最も力強く主張した作家/活動家である。悪名高い侍スタイルの自殺も含め、彼が今でも論争の的になる人物であることは間違いない。しかし、三島は遂に彼にふさわしい真剣な批評的考察の対象となっている。

 

第二次世界大戦で国が破滅的な敗北を味わった後、何年にもわたって、日本のカルチャー・シーンにおける三島の存在感は圧倒的だった。非常に多作であり、ほとんどあらゆるジャンルで数百もの作品を生み出した。『仮面の告白』 (1948)や『金閣寺』(1956)などの小説は、世界的な読者を獲得した最初の日本近代文学作品に数えられる。劇作家としては、古典芸能である能の演目を現代劇に翻案したことや、歌舞伎のためにウィットに富む喜劇を書いたことで成功を収めた。また、映画監督や俳優としての仕事もこなした。

 

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三島は、その作家生活の初期においては、美のみを興味の対象とし、芸術以外の世界には傲慢なほど無関心な耽美派として自分を提示した。しかし、1960年以降、彼は日本の社会政治的な沈滞に目を向けるようになった。戦後の経済復興が著しい成功であることは既に明らかだったが、多くの日本人は文化的な混乱を覚え、それに悩んでいた。アメリカ軍部の法律家が起草した日本の戦後憲法は、軍隊を維持し、交戦するという日本国の権利を永遠に放棄した。侍の国において、戦士となることが違憲とされたのだ。これに伴い、日本の軍隊は “自衛隊” に名前を変え、米国との安全保障条約をめぐる状況は、激しい議論の的となった。

 

一方で、日本の知識人は、”西洋化” が日本の文化的統合性と伝統的様式をどれほど蝕んでいるのかについて議論を戦わせていた。日本の大学キャンパスでは、新しい大衆社会における意味の欠如に不満を唱える学生たちが、長く、時に暴力的な抗議行動を起こしていた。これらに加え、共産主義は日本でも信奉者を増やしており、最も過激な一派は、革命の主導や皇室制度の廃止を訴えていた。

 

三島は、こうした問題の真っただ中に飛び込み、断固とした反動的アジェンダを推進した。戦後憲法の平和主義を嘲笑い、挑戦するかのように武道を習い、軍事訓練に参加した。敵に囲まれた大学のキャンパスを訪れ (当時の状況を考えれば大胆な行動)、学生たちに文化的遺産の重要性を説こうとした。西洋文化の “利己的な個人主義” を批判する一方、英雄的な自己犠牲という “武士道精神” を褒めたたえ、神風特攻隊の “悲劇的な美” を賛美した。自身が監督した短編映画『憂国』(1966)では、天皇の命令に背くよりも自殺することを選択した将校を自ら演じた。多くの観察者には、三島は日本が懸命に忘れようとしている過去を賛美することで、故意に日本を愚弄しているように見えた。不真面目な耽美主義者が、どういうわけか熱心な破壊分子に変身したのだ。

 

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ときに大げさとも思える風変りな仕草で、三島は政治的立場の両翼から距離を置くことに成功した。左派は、日本の軍国主義と天皇を中心としたファシズムを露骨に栄光化するものとして彼に異議を唱えた。しかし、彼は日本文化の継続性の究極的象徴として天皇制の重要性を主張する一方で、戦時および戦後の天皇であった裕仁を大胆にも批判した。ファシスト的全体主義に日本が陥ったこと、そして「ナチスに影響を受けた軍上層部の一部の悪党が、止めることのできない戦争への道を歩み始めることを許した」(訳注: 原典不明)ことについて天皇を批判した。天皇批判はどのようなものであっても冒涜だと見なす極右集団から三島が殺害予告を受け、警察の警護の対象となったのは一度だけではない。

 

1968年、“世界革命” がその絶頂期を迎え、日本のあちこちで暴動が発生していた頃、三島は楯の会という名の民間防衛集団を結成した。彼は会員たちに準軍事組織の制服を着せ (彼自身がデザインした)、報道陣に披露した。彼の説明によれば、この集団の目的は、日本の共産主義者による革命が発生した際に、政府の治安組織を支援することだった。三島は、日本の魂のために壮大な戦いの中で死ぬことを望んでいた。革命が起きないことが明らかになったとき、彼はその計画を殉死へと変更した。

 

1970年11月25日の午後、三島と4人の会員は、東京の中心部にある自衛隊基地で事件を起こした。社交的な訪問を装って総鑑と面会した彼らは、総監を人質に取り、執務室に立てこもった。総鑑を救出しようとする自衛隊の幹部や隊員を、三島は16世紀の日本刀を使って退けた。基地にいる全員を本館前に集めるように要求した後、三島は数分間、彼らに向けて演説した。

 

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演説の中で、三島は、“自分を否定する” 憲法を受動的に受け入れていることについて自衛隊を叱責し、憲法を改正するために彼と共に立ち上がるよう訴えた。“それでも武士か?” と三島は彼らに向かって叫んだ。三島のもう1つの不満は、より曖昧なものだった。日本はその根本原理を見失った。人々は歴史と伝統を見捨ててしまった。天皇はきちんと崇拝されていない。国民全体がその魂を金と物質主義に売り渡してしまった。この先にあるものは精神的むなしさだけだ。だが、返ってきたのは怒号とやじばかりだった。建物の中に戻った三島は、腹を裂き、介添人に首をはねさせるという昔ながらの武士のやり方で自決した。もう1人のメンバー、楯の会の学生長だった男も同様の方法で死んだ。

 

当初は “クーデター未遂” と見なされた三島の行動は、世界中で大きなニュースになった。当惑した日本のリーダーたちは、日本が好戦的なウルトラナショナリズムに退行しているのではないという安心感を与えなければならないと感じた。三島は気が触れたに違いない、と彼らは言った。三島のとっぴな行動は、日本や日本人に関する真実を表すものでは決してない、と。神経を擦り減らすような集中的な分析の後、日本の知識人が到達した結論も同じだった。この後、何年にもわたって、三島の母国において彼の名前は事実上タブーとなった。

 

*     *     *

 

三島について書き始めた学者や批評家の多くは、彼の生い立ちにその説明を求めた。しかし、三島の人格形成期に起きた出来事は、彼が育った時代の基準に照らせば特段珍しいものではなかった。彼は、1925年、武士の血を引くことをささやかな誇りとする公務員の長男として東京に生まれた。病気がちだった三島を12歳まで主に育てたのは、神経質で支配的な祖母だった。敬愛する母とは、けっして衰えることのない強い共生的関係を築いた。1944年、三島は抒情的な短編をまとめた最初の本を出版した。

 

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同じ年、戦死することを確信した彼は、遺言状を書いた。彼は正式に召集令状を受け取ったが、入隊検査で失格となった。屈辱だったが、これが彼の命を救ったのはほぼ間違いない。戦後、三島は東京大学で法律の学位を取得し、大蔵省で短期間勤務した後、フルタイムの作家となった。30代前半で結婚し、2人の子を授かった。何回かの海外旅行を除けば、東京が彼の生活の場だった。

 

円熟期に入った三島が自分のために作り上げた武士のペルソナは、若い頃の彼が欠いていたものに基礎を置いていたことは簡単に見て取れる。病気がちで、繊細で、本好きで、女性の力に息を詰まらせ、虚弱なために天皇の軍隊に入ることができなかった少年は、強健で、支配的で、過剰に男性的で、天皇の軍隊に入るには強すぎる戦士へと自分を変えた。同様に、彼の凄惨な死は、彼がほとんど隠そうともしなかった病的なエロティシズムの達成だったことも明白である。『仮面の告白』は、当時としては前例を見ない残酷なほどの率直さで、ハンサムな男性の肉体を対象としたSM的流血への肉欲を描写した。三島のほとんどの作品は、退廃的な美学に支配されている。その美学によれば、美しいもの(特に美少年)は、破壊の瞬間にこそ最も強烈な美を放つのである。

 

こうした強迫観念は、まったく特異だったわけではなかった。三島と同世代の日本の少年は、死について思いを巡らせ、どのように死ぬのかを考えないわけにはいかなかった。彼らのほとんどは、20歳を過ぎて長くは生きられないことを当然だと思っていた。日本の軍国主義者は、死を美化するというイデオロギーを推進し、戦場で “玉のように砕ける” ことの美徳を称揚した。このイデオロギーを吸収したが、実際には戦争に行かず、日本の敗戦後も生き延びた三島のような少年にとって、戦時は危険や破滅との陶酔的な出会いとして記憶に残った。そして、それは、戦後の平和な時代には、けっして取り戻すことのできない体験なのだ。

 

『金閣寺』の中心にあるのはこうした陶酔である。この小説は、若い僧が戦時中に修行した有名な京都の寺に対して抱く不安定な感情を綴ったものだ。僧の目には、空襲で破壊される可能性のあった戦争の真っただ中でこそ、この寺が最も美しく見えた。あらゆるものの儚さを官能的な形で表出するこの寺は、彼の悲劇的な憧憬の象徴となった。しかし、戦争が終わったとき、寺は無傷で、僧のはらわたは煮えくり返る。これが最終的に、宗教的犠牲にも似た破壊行動へと彼を駆り立てる。

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こうした半宗教的な憧れにも突き動かされ、三島は殉教者になることを常に夢みていた。難しかったのは、崇高な動機を見つけることだ。三島は、外国で生まれたもう1つの全体主義が日本に浸透するのを防ぐ戦いに、その動機を見つけたと考えた。彼は、楯の会の声明文で彼の立場を明らかにした。

 

  1. 共産主義は、日本の伝統、文化、歴史とは相容れないものであり、天皇制に反するものである。
  2. 天皇は、私たちの歴史的/文化的コミュニティおよび民族的アイデンティティの唯一の象徴である。
  3. 共産主義がもたらす脅威を考慮すれば、暴力の使用は正当化される。(訳注: 原典不明。『反革命宣言』に同様の記述があるようだが)

 

日本のナショナリズムの中心には、常に天皇制があった。日本最古の文書には、約2700年前に国を造ったとされる初期の天皇たちの神話的な系譜が記されている。おおかたにおいて政治的権力から距離を置いてきた天皇は、日本という国の神聖な導き手として、そして日本人とさまざまな神々とを結ぶ橋渡し役として、長く崇められてきた。三島の不満の1つは、彼の言う “凡庸な相対主義” (訳注: 原典不明、英文は a hell of relativism)が日本に蔓延したことにより、天皇の神聖な側面が失われてしまった、ということだ。最後には “週刊誌的天皇制” しか残らないだろう、と三島は嘆いた。

 

三島は、日本の “アイデンティティ・クライシス” を、資本主義者的価値観の世界化と普遍化という、より広範な傾向と結びつけた。文化は、統一された生命の形を持つ場合のみ花開く、というのが三島の主張である。しかし、日本の文化は、他の文化と同様に、西洋によって蝕まれている。三島の最後の声明文は、悲観に満ちている。

 

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」

 

日本人テロリストは既に世界の注目を浴びていた。1970年代初め、赤軍派と称する好戦的な共産主義者集団が、暴力的な作戦を国際的に展開していた。彼らは、ハイジャック、誘拐、民間人の無差別爆弾攻撃や銃乱射など、現代のテロリズムを象徴付けるような手段を既に用いていた。三島は憤りながら赤軍派を非難し、彼自身の行動をもって、正反対の精神、すなわち、日本や現代の世界から消え去ろうとしていると彼が主張する高貴な精神を示そうとした。赤軍派の残忍なテロリズムに比べると、自衛隊基地における三島の破天荒ともいえる行動は、注意深く自己抑制されていた。楯の会は銃器を使用しなかった。自衛隊幹部が後に証言したところによれば、三島は彼らに対して年代物の日本刀を使うときでさえ、深い傷を負わせないような方法をとったという。

 

三島が晩年に取り組んでいた文学に関する仕事は、『豊饒の海』と題された4部作だ。救済と転生にまつわる美しくも究極的に謎めいた大作である。三島は、彼が死ぬ日に最終巻の原稿が出版社に届くように手配した。彼は、その死が歴史的な重要性を持つ出来事になることを望んだ。そして、その目的は達せられたと言っていいだろう。天皇裕仁は三島の死後、20年以上生き、1989年に世を去った。しかし、一部の日本人評論家は、裕仁の治世の精神は三島と共に消え去ったという感覚が既に存在すると認めてもよいと感じた。三島の芝居がかったマゾヒズムが、戦時の天皇の象徴的な処刑として機能したのであり、日本人が罪の意識を洗い流して過去から立ち直るのを助けたと示唆する者さえいた。

 

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新しい世紀に入って三島の評価は上昇し、彼の作品に対する本格的な関心もこれまで以上に高まってきた。英語圏では最近、彼の作品の翻訳が何冊か出版された。日本では、伝統に対する無頓着、文学的水準の衰退、芸術や文化に対する企業の欲望と行政の無関心など、さまざまな問題に対する三島の警告が、日本の美がどれほど失われたのかに気付いた今日の読者の琴線に強く触れた。

 

しかし、三島の非常に暗い予測にもかかわらず、日本はアイデンティティ・クライシスから立ち直った。決定的なことは、1960年代に吹き上がった急進的な思想は、日本社会全体に浸透するには至らなかったということだ。それ以降、文化的に独自であり民族的に同質であるという日本の主張を反証し、その建国にまつわる現代の神話を脱構築し、過去について日本人に罪悪感をより強く抱かせようとする反ナショナリストの何十年にもわたる取り組みは、たいした結果を残せていない。日本、そして日本人は、強固に自民族中心主義であり、他の東アジアの国と同様に、愛国的な誇りは広く共有される理屈抜きの感情である。

 

日本の天皇制はまったく損なわれておらず、天皇徳仁はその臣民から広く愛されている。日本の政治的リーダーシップは保守派が圧倒している。彼らは、武力で防衛するという国家の権利をはっきりと認めるために、日本国憲法の改正を目指すとしている。共通の文化的遺産に対する意識を高めることで、人々の間に忠誠心の絆を強め、それを広く行きわたらせようと努めている。彼らは、天皇家に対して畏敬の念を持ち、国歌や国旗を尊重することを奨励している。人気の高い彼らのスローガン、「美しい伝統の国柄を明日の日本へ」(訳注: 日本会議のスローガンの1つ)は、愛国心の発露である。三島が現在の日本の状況を見たとしたら、その将来の存続について、それほど悲観的にはならないのではないか。

(翻訳ここまで)

 

アンドリュー・ランキン氏は昨年9月に『Mishima, Aesthetic Terrorist: An Intellectual Portrait』というタイトルの本を出版しています。

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『Seppuku: A History of Samurai Suicide』という切腹の歴史についての研究本も書いています。

 

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また、中上健次の短編集『蛇淫』の英訳もされているようです。

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