『ザ・ルンペンブルジョワジー』

米国のジャーナリストであるレイトン・ウッドハウス氏のSubstackから「ザ・ルンペンブルジョワジー」という記事を訳してみた。IT企業をはじめとして、アメリカ社会はなぜこれほどまでにウォーク(左傾)化してしまったのか。今回のTwitter社の大量レイオフにもつながる話です。

 

「ルンペンブルジョワジー」とは、ここでは生産性は低いが高給と社会的尊敬を得られる職についている大卒社会人ぐらいの意味。労働市場での競争で明確に有利となるスキルを持たない主に人文系の卒業生が各産業に入り込み、大学で吹き込まれた道徳的資本を頼みの綱にしてキャリアを築こうとする。その過程で社会がWoke化していったとする議論。

 

イーロン・マスクが今回レイオフしたのは、こうしたルンペンブルジョワジーの階級に属する人々だったのかもしれません。

 

leightonwoodhouse.substack.com

 

(翻訳ここから)

 

ザ・ルンペンブルジョワジー

 

文: レイトン・ウッドハウス (Leighton Woodhouse)

公開: 2022年8月11日

 

ノルウェー映画の『わたしは最悪。』にこんなシーンがある。主要登場人物の1人である漫画家がテレビでインタビューを受けている。彼の初期の作品についてだ。インタビューはすぐに尋問に変わる。今は中年となった彼を数十年前に有名にした漫画は、典型的な90年代スタイルのアンダーグラウンド・ポップ・カルチャーの特徴を備えていた。すなわち、淫らで下品で猥雑でいかがわしく、意図的に不快感をかきたてるものだった。それと同時に痛烈で感情に正直でもある。漫画家が若かった頃、それは不満を抱いた芸術家や知識人などの左派には本物で因習破壊的だともてはやされ、宗教的な保守派には退廃的で下劣で文化的に腐食的だと忌み嫌われたジャンルだった。しかし、このインタビューでは、左派はこれらすべてについて彼を厳しく責め立てる。女性を粗雑に性的な対象物として扱っているのではないか。読者の中には近親相姦やレイプの被害者もいることを理解できないのか。彼よりも弱い人々をあざ笑うために男性の特権を使用するな。左派はそう叱りつけた。

 

同じような批判に何年も対応してきた彼は、疲れ果て、感情を爆発させる。こうして指弾されることにはいつまでたっても納得がいかない。アーティストとしての彼の拠り所は以前からまったく変わっていないのに、ドン・ドレーパー(注1)の場合と同じように、彼の周りで世界が大きく変わってしまったのだ。

 

注1: 米国のテレビドラマ『マッドメン』の主人公。

 

もちろん、こうしたテーマを取り上げた映画はこれが初めてではない。しかし、『わたしは最悪。』は文化的な左派と右派の立ち位置が入れ替わったことを効果的に描き出した。以前ならキリスト教的な家族の価値観を守るためにと鉄の熊手をかかげてロバート・メイプルソープ(注2)や『小便キリスト』(注3)やツー・ライヴ・クルー(注4)や『最後の誘惑』(注5)を追いかけ回していた検閲官は、社会正義の名のもとにデイヴ・シャペル(注6)やドクター・スース(注7)についてオンライン上で激高する輩(やから)どもとなった。対立の内容自体は何も変わっていない。登場人物がごちゃまぜになり、台本がアップデートされただけだ。

 

注2: 米国の写真家。官能的な写真で有名。

注3: 小便を入れたツボにプラスチックの十字架を入れたアンドレス・セラーノのアート作品。

注4: 性的に過激な歌詞で知られる米国のヒップホップグループ。

注5: キリストの人生を描いたマーティン・スコセッシの映画。背教的だと議論を巻き起こした。

注6: 米国の黒人コメディアン。LGBTコミュニティやキャンセル・カルチャーに関するジョークが非難の的となった。

注7: 米国の絵本作家(1991年没)。近年、スースの作品にはアジア人や黒人の描き方が不適切だとする批判が相次いでいる。

 

どうしてこうなったのか?

 

先週、私は政治的行動主義について書いた。その中で、政治的行動主義のプロフェッショナル化が非営利活動家の組織にどのように権益を生み出したかについて説明した。その権益は、活動家が支援の対象だと主張している人々とはまったく関係のないものであり、こうした人々と直接的に競合する権益である場合すらある。このダイナミクスこそが、政治と政府の機能不全を悪化させ、私たちが抱える最も厄介な社会問題の解決をほぼ不可能にしたのである。

 

前回の文章では、政治的行動主義がそもそもどのようにして成長著しい産業になったのかということには触れなかった。ハリウッドからワシントンDCまで、専門職管理職階級(注8)が生息するあらゆる業界のインセンティブ構造を歪めたのは、このプロセス、すなわち要求を創り出すプロたちによって構成される巨大なテクノクラシーの成長と発達である。その結果、バリ・ワイス(注9)の言葉を借りれば、世界は「気が触れてしまった」のだ。

 

注8: Professional–managerial class (PMC)。資本主義における社会階級の1つで、上級管理職のポジションで生産プロセスをコントロールする。プロレタリアでもブルジョワでもない新しい階級を指す言葉として1970年代に生まれた。2010年代以降の米国では、リベラルで裕福な民主党支持者を指して使われることが多い。「専門職管理職階級」が日本語として定訳かどうかはわかりません。

注9: 米国のジャーナリスト。左に偏りすぎた社風のバランスをとる試みの一環として2017年にNYタイムズ紙に雇われたが、左派記者からのいじめにあったとして辞職。現在はポッドキャストのホストとSubstackニュースレター「コモンセンス」の主幹を務める。

 

1990年代から大卒者の割合は着実に上昇している。過去15年の間だけでも25歳以上で学士号を持つアメリカ人の割合は5%近く上昇した (パンデミック以降は減少しつつあるが、これが長期的な傾向になるかどうかはまだわからない。いずれにせよ、高等教育部門の中でコロナの影響が最も少ないのは4年制私立大学というエリート層である)

 

表面上は、大学進学を選択するアメリカ人が増える理由は単純明快だ。従来、大卒者は高卒者に比べてより多くの金を稼ぎ、就職可能性も高かった。20世紀の終わりに高賃金の製造現場の仕事が消失したことで、その傾向はますます顕著になった。

 

だが、その現実は一方では見かけほど単純ではなく、他方では以前ほど明快ではなくなった。金銭の面で言えば、集団としては大卒者が非大卒者よりも生涯賃金が高いのは事実である。しかし、これら2つの集団は重なり合う部分も多いので、高校卒業資格で社会人になった人が、学士号を持つ人よりも稼ぐというのはおおいにありうる。就職可能性について言えば、大学を卒業していた方が簡単に職を得ることができたというのは何十年にもわたって事実だった。しかし、この優位性は2018年に逆転した。この年以来、大学卒業生の失業率は、労働者全体の失業率よりも高い過去12か月間連続してそうなのである。

 

大学の学位の価値は下がった。4年制大学の卒業生が労働市場にあふれかえっているからだ。高卒者よりも低い給料で働く学士号取得者は、ソーシャル・ワーカーや教師など、大学卒業証書を必要とするけれども低賃金の分野で働いているか、小売り、オフィス事務、カスタマー・サービスなど、そもそも大学教育を必要としない職業に就いていることが多い。前者の場合は、大卒の求職者が多いことに加え、公的な財源も激減していることから、資格は必要だが労働市場でほとんど、またはまったく交渉力を持たないさまざまな専門職を生み出した。後者の場合は、大卒者にふさわしい仕事を求めて競争が熾烈化することにより、競争力に乏しい大卒者は、4年制大学に入学した時点ではおそらく思いも寄らなかった仕事に追いやられる。一般的に、こうした買い手市場においては、大学の学位が持っていた従来の優位性が削ぎ落とされ、かつては失業から守ってくれていた高学歴というカードを手に入れた者たちも、2018年以降はしつこい失業の問題に悩まされるようになった。

 

したがって、ここ20~30年、これまでになく多くの大卒者が生まれているのだが、彼らのキャリアの見通しは以前ほど明るくない。この苦しい状況により、新卒の求職者はある種の適応を余儀なくされた。その適応の仕方こそが、彼らが入り込んだ産業の変容を促したのである。

 

こうした高い教育を受けた若い社会人が、大学の学位が可能にしてくれると彼らが信じていたアッパー・ミドル・クラスのライフスタイルを熱望するのはもっともなことだ。しかし、大卒者のうちSTEM (科学・技術・工学・数学)分野の学位を取得したものは3分の1に満たないので、大卒者でも市場性が明確に高いスキル・セットを持たないものが多い。比較文学や政治学の授業では、新しい製品を構築・設計する方法や、新しい事業戦略を計画・実装する方法を教えてくれなかった。だが、彼らがふんだんに持っているのは文化的資本である。もっと具体的に言えば、大学で吹き込まれたサブカテゴリの道徳的資本である。

 

90年代後半のドットコム・ブームの時期、およびパンデミック前のITブームの時期という2回の長い期間にわたって、こうした新卒の求職者の多くはデジタル経済の世界で高収入のキャリアを見つけることができた。プログラマーだけではない。人文学や社会科学を専攻した学生にも、マーケティング、人材管理、コミュニケーションなどの分野で大量の職が用意されていた。かつては理想主義的でリバタリアン的だったテクノロジー産業は、こうして押し寄せた新規採用者たちの道徳的資本を体現するようになった。一言でいえば、ウォーク(Woke)になったのである。私が属するメディア業界など、より小規模なその他の産業も、こうした余剰のホワイト・カラー労働力を吸収するのに一役買い、その過程で急激に破壊が進んだのである。

 

だが、非営利団体のセクターほど、こうした労働市場の余剰を拾い漁った産業はおそらくほかにないだろう。テクノロジー企業やメディアとは異なり、進歩的NGOの世界では、こうした求職者が4年間の大学生活で蓄積した道徳的資本に対する実際の有機的な需要がある。マイクロアグレッション(注: 無意識の差別的言動)を嗅ぎわけられるようきめ細かく調整された感受性。多くの人には意味不明な社会正義語法の文法や語彙を操るネイティブ・レベルの流ちょうさ。おおげさではなくあらゆるものについてレイシズムの構造を見い出す鋭敏な能力。これらがあれば、後はこうした人材のための消費者市場を文字通り何もないところから創り出すことができる。どうやって? 解決すべき新しい社会問題を発明すればいいのだ。

 

いったん非営利団体の職を得れば、彼らはその高みから残りの世界の苦悩を診断することができる。企業Aの採用業務における人種的公正さの欠如に白人優越主義が影響していることを感じ取り、産業Bの顧客基盤におけるジェンダーの不均衡に女性蔑視とトランス嫌悪が存在することを認識する。必要であれば、「ヴォイス・ヒアラー(注10)から「MAP(注11)まで、新しいマイノリティ・コミュニティの輪郭を描くのはお安い御用だ。そしてそのそれぞれが抑圧者から身を守るために新しい非営利団体を切望している。社会的疎外からの防御は、無限に融通の利く便利なツールとなった。なぜなら、新しい脅威を発見し、新しい悪漢を名指しし、その上で監査、トレーニング、コンサルティングの名目で不届き者に是正サービスを売りつけるには、大学で教わった想像力以上のものを必要としないからだ。

 

注10: 幻聴がきこえる人を指す新しい婉曲表現。

注11: minor-attracted personの略。子供や未成年者に性的な関心を抱く人を指す新しい婉曲表現。

 

彼らのビジネス・モデルはシンプルだ。すなわち、強請(ゆす)りである。非営利世界の道徳専門家は、彼らのサービスにお金を支払う余裕のある公共団体や民間組織の状況を見渡し、なんらかの構造的抑圧に急性的に感染していると診断し、公に治癒と贖罪の道を歩めるように一連のサービスを提供する。マルコム・シユーネ (注12)指摘したように、ウォークネスのイデオロギーは政治的なみかじめ料取り立て屋のように機能する。実行部隊をあらゆる産業や企業に忍び込ませ、創造者と創造物の間を取り持つ仲介役を担わせるのだ。あなたは自分の会社を経営することができる。脚本を書くことができる。法案を起草することができる。製品を市場に出すことができる。ただし、道徳的インテリのイデオロギー的基準が満たされていることを確認するために外部から番人を迎え入れなければならない。もちろん、高い料金を支払ってだ。現実的な経済的価値があることが明らかなスキルを持たない層にとって、この寄生的な職務は人もうらやむような政治的・社会的権力の源となるのである。

 

注12: Malcom Kyeyune。スウェーデンの文筆家。本人はマルクス主義者だと考えているが、ポピュリズムに肯定的なためメディアから保守派と評されることも多い。

 

こうして「多様性/公平/包摂(DEI: (Diversity/Equity/Inclusion))」コンサルティングの仕事は、世界的な数十億ドル規模の産業へとガン細胞のように増殖していく。この産業は、雇用適正の低い大学卒業生にとっての救命ボートになっただけではなく、現実の経済に何が起ころうとも大卒資格を持つ階層を永遠に支えることのできる雇用創出マシンとなった。

 

DEI信用詐欺は、最初からほとんど抵抗に遭うことはなかった。なぜなら、アメリカの実業界が既に気づいているように、こうしたコンサルタント兼活動家が悪事の償いとしてターゲットに突きつける要求は、たいして厄介なものではないからである。嫌な顔をされることすら少なかった。一般的に企業は次のようなことをすればいい。まず、法外な値段でDEIコンサルティング会社を雇う。そして、気の毒な社員向けに人種的な気配りや無意識の偏見に関する必修トレーニングを運営させ、人種をはじめとするあらゆるインターセクショナルなアイデンティティにかかわる分野で社員が顧客や同僚とどのように関係するかを監督するために新しい手順やポリシーを作らせるのだ。言い換えれば、企業はその道徳的間違いに対して支払うお金で、社員を統制してコントロールするための新しいツールを手に入れたのである。これは、コンサルタントだけでなく経営者にもほぼ同じようにおいしい申し合わせである。そして、割を食うのはいつものように社員なのだ。

 

全体として、ルンペンブルジョワジーが資本家と結んだ契約は、大卒者の雇用を維持し、エリートの一部がその大志の実現を拒否されたときに発生しやすい政治的不安定を未然に防ぐために、アメリカの実業界に課された小規模な税金のようなものである。おまけとして、こうした企業は大卒の社員には高潔に見え、さらに一部の企業についていえば、大卒者が大部分を占める顧客層にも高潔だと受け止めてもらえる。エリート層全般にとってなかなか悪くない取引なのだ。唯一の欠点は、世界全体が気のふれた場所になっていくことである。

(翻訳ここまで)

 

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