あいちトリエンナーレで津田大介氏が「結果の平等」をゴリ押しした件

あいちトリエンナーレ。「表現の不自由展・その後」については大騒ぎになったけど、津田大介氏が強引に導入した出展者の男女同数 (結果の平等) についてはあまり言われてないので、もう一度蒸し返したい。

 

芸術展なのだから、原則としては、個々の作品の質や作品がテーマに沿うかだけで出品作を決めるのが筋。そして、芸術に関係のない要素 (出展者の属性: 性別、民族、社会的ステータスなど) を選考基準として加味するなら、そこには説得力のある理由が必要なはずだ。

 

ところが、こちらの北海道新聞のインタビューを読むと、津田氏は広報活動で苦戦したので、広報の目玉としてジェンダー平等を捻じ込んだように読める。つまり、平等という重要な問題を、深く検討することなく集客目的で利用したように読めるのである。

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/322393

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別のインタビュー記事(Wezzy)を読むと、ジェンダー平等5:5を謳う前の段階で出展者の男女比率は既に6:4。これは日本で行われる他の国際芸術祭より大幅に女性が多い。それなら、それを成果として誇ればいいだけなのだが、5:5でなければ広報要素として弱いと踏んだのだろう。

wezz-y.com

 

平等を目指すことに文句のある人はまずいないだろうが、それはあくまでも機会の平等の話であって、結果の平等という人工的な社会改造には危険性が伴う。津田氏が5:5のジェンダー平等を発表したとき、私はジョーダン・ピーターソンの動画を引いて批判ツイートした。

togetter.com

 

ピーターソンの動画を要約すると、”右派にも左派にも、全体主義的なダークサイドがある。行き過ぎれば破滅的な結果をもたらす。20世紀には実際に破滅的な結果をもたらした(ヒトラー/スターリン/毛)。右派は、ここから先は行き過ぎだという指標を確立したが(人種的優越主義)、左派はそれができていない”

 

さらに、ピーターソンは左派の「行き過ぎ目印」の候補の1つは「結果の平等」ではないかという。 この「結果の平等」こそ津田氏が実行したことだ。すると、私の批判ツイートに津田氏から直々にレスをいただいた。津田氏は「半々で終了。限度は定義されている」というのだが、実は全然定義されていない。

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なぜなら、津田氏はこの時点で既にこう言っている。「2022の芸術監督は女性にしてください。2010から4回連続男だったので、2022からは4回連続女性にすべき。それしか言わないつもり」と、芸術監督の任命にも結果の平等を拡大しようとしているのだ。また、朝日新聞の論壇委員も男女半々を要求した。

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男女の結果平等を達成した後、次は何か? LGBTはどうするのか? 民族的少数派にはどれだけ割り当てるのか? 経済的弱者は? LGBTで民族的少数派で経済的弱者には? 限りがない。そして、その割り当てを決めるのは誰か? 津田氏のような小さな独裁者か? 結果の平等を追求すれば世の中は無茶苦茶である。

 

非常に限定的な範囲ならアファーマティブ・アクションはありだと私も思う。しかし、今回の津田氏の行動はアファーマティブ・アクションの精神にも基づかない。津田氏はこう言う。「女性に下駄を履かせるんじゃない。男性がこれまで履いてきた高下駄を脱いでもらうんです」。

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アファーマティブ・アクションは環境に恵まれない人のために基準を下げて優遇すること。自分が特権階級だと見なす人に罰を与える (津田氏の言葉を借りれば “高下駄を脱がす”) 行為ではない。アファーマティブ・アクションは、持てる者と持たざる者を切り分けて対立させるための道具ではないのだ。

 

そして、津田氏の行為を「結果の平等」の乱用だと批判するとどうなるのか。お前を働けないようにしてやるぞ、と脅されるのである。

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